昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

すこし、わたしのはなしをしよう。

わたしの、はなしをしよう。

悲劇を謳うシステム的なカラスどもがうながす終末論や、悲劇的な街角を呪う魔女どもの至福や、信号にからまる月日が用いた憂鬱や、油然とあらわれる面影も、ここで用いられるものに食い尽くされ、何も残らぬままに、自らの空疎な身体に補完される幽遠に退いていく、まる

平静


 規定されるままに過ごす一生とは檻の中のようだ、とオーガズムにひたるだけの権利が毒々しいものを虐げ、したがえるものに悲観をうながすだけの感覚とは、憧憬を続けるだけで、一律の意味に神を求めるだけで出来合のものを信心し、みすぼらしい現在から逃げ出すための道楽が荒んだ感情を癒やすのだ、と言い分けがましく補完されるほどに倦怠感は増していき、今に諦観をうながすだけに至るし、ここで効率良く何かを補完し続けてもなお、分裂していく意識は、対立を深め、終わらぬ軋轢から、戦争は荒んだものをどんどん生産的にうながし続けるし、ここで受け入れるものとは、偏るだけの思想に至らせ、思考停止に陥る全体主義的な余韻から、因果律に引き離される君との愛や、君との意味すら厭わしいものに変えるようなウイルスをまき散らし、観点から疎外させるためにプリミティブなものを用い、何かを信用することで、何かから救われるものだ、という肯定的なペシミズムに陥るだけの同情から、浪費していく精神とは、観念論から逃げ出せずに、実存主義的な優美さに遊離し続け、用いられる差異から、ここで再開発されるだけの現在とは歴史の中で鎮座する正解の中でしか答えを求められぬような正否の中でしか、自らを正解へと誘えぬように現在に転換される悪とは作られたものであるし、創造主を捏造し、何かを憎悪するための理屈を並べ、神々との闘争から、ここで倒錯するものを踏破できぬから、ここでつまずくだけに至り、何かにひたることで場になじむという幻想から、経験論をうながし、漠然とした悪意をむさぼるだけの幽鬼として存在する存在をそこなわせるだけの有徳さを補正し続ける真理などは、今にみちびきを生み出さずに一瞬の痛みで逸脱し、自らから離脱し、加算される痛みから生み出される戸惑いがやがて諦観へと移行し、その場で膠着させ、現実味をそこなわせるだけにいたるような即席の贖罪から、体系的なものがひろがり、何からの自由を奪う不自由を作り出すだけの製造から、相違し続ける限りに果てしない倒錯にいたるような無知さを攪拌し、あらゆる差異との衝突を繰り返し、その安全性をうたがわぬような全体主義的な容易さから、要因とは、何かを成し遂げる前に、ここであつらえられるものに依存することでしか、生きていることも認識できぬような生き方が正義というのなら、ここにある正義とは、清貧さを求めずに、何かを奪うための強盗であり、そこで統合されるものが用いる正常などは、そこに用いられる意味からはみ出さぬように、と用いられた答えに隷属する奴隷の真理であるし、そこで強制的に用いられる意味とはむらがる意味の中で繰り返しうながされる位置の魑魅魍魎であるし、みちびかれる意味とは、今に卑近なものに変わるし、ここであつらえるものこそが、今を悲観するためのシステムの中で垂涎する者の餌として補完され続ける心身とは、新体のための生贄であるし、あらゆる論理の中で売買されるような生贄として、その人生を真っ当なものだ、と認識するほどに悪に荷担し、何かを食するよろこびに遊びを用いるような残酷さを孕んだ懶惰な生を真っ当する。そこで保持する苦しみとは、理解を得ようと、何かを求めようとするほどに、苦しみとは増していき、いくつもの可能性を否定し、今にとどまるほどに、ここでの苦しみを補填し続ける。ここでさいなまれる意味との統合を目指すだけの正常が、ここでの差額を埋めるために文明の餌として、自らを儀式に投じるのだ、というようなアニミズムに倒錯していく原理的な我が子を葬るように、何かでがんじがらめになるほどに、そこでおどけ、おどらされるほどに愚かさを強調するような原罪こそが、いちばんの愚かさを含んで、何かを否定することだけが、ここでの進化を育むのである、と宣言するようなセンテンスに騙される以前に、内面性がなぶられ、今に観点に疎外されるだけの君の無知に迫る歯がゆさに破壊的な政治性から、清逸な主観を用い、短絡的な動向にひきずられるよりも、ここで要理を用い、林立するものなどは、邪魔なものに変わるだけだし、ここでバラバラになる主体は、探されることを待つばかりで、今にまじわることを知らずに、今に邪推し、何かを恨むような性悪説から逃れるべく、この意味とは位置を持たずに、ここでバイタルを増幅させるための創造性だけを蓄え、ここに孕むものが権威的なものに囲われ、加工された品位を用い、倫理を盾に、何かに取り込まれることを傍観するような諦めに屈従するよりも、どこに居ようが不安とは増すし、何を持っても、何も持っていなくても不安とは消えないものであるし、何かに追われるほどに、強迫観念は増していき、邁進していく今も、今に意味を見失い、自らを恨み出す始末から、姿勢は狂い、ここで何かに偏ることだけが、正しいことのようにあつかわれ、あいまいな今に始動していくものも、意識をしどろもどろに変えるだけにいたるし、ここで保たれる愛とは、継続されるものではなく、そこに契約すらもなく、ただ愛することすら思わずに、自然に放つような愛だけが、愛と呼ばれる前の、形すら持たずに、今に体系化する以前の愛が何かを強要せずに、理想論にいたる前の愛が病になる以前の時折にひずむ優劣が運ぶ優越感にひたる前の愛に帰り着くような感覚だけが善悪を越える。

すこし、わたしのはなしをしよう。

わたしの、はなしをしよう。

ここで膠着するものを解放するような論理を用い、求められることにより、そこで硬化するだけにいたるような精神を切り取り、記号化するだけの幼稚な論理に偏るだけの主義などは、思議にいたらずに、何かに考えさせられ、それを考えているように厭わしく求めるだけにすぎない思議などは、考えにいたらぬ、まる

平静


 規定されるままに過ごす一生とは檻の中のようだ、とオーガズムにひたるだけの権利が毒々しいものを虐げ、したがえるものに悲観をうながすだけの感覚とは、憧憬を続けるだけで、一律の意味に神を求めるだけで出来合のものを信心し、みすぼらしい現在から逃げ出すための道楽が荒んだ感情を癒やすのだ、と言い分けがましく補完されるほどに倦怠感は増していき、今に諦観をうながすだけに至るし、ここで効率良く何かを補完し続けてもなお、分裂していく意識は、対立を深め、終わらぬ軋轢から、戦争は荒んだものをどんどん生産的にうながし続けるし、ここで受け入れるものとは、偏るだけの思想に至らせ、思考停止に陥る全体主義的な余韻から、因果律に引き離される君との愛や、君との意味すら厭わしいものに変えるようなウイルスをまき散らし、観点から疎外させるためにプリミティブなものを用い、何かを信用することで、何かから救われるものだ、という肯定的なペシミズムに陥るだけの同情から、浪費していく精神とは、観念論から逃げ出せずに、実存主義的な優美さに遊離し続け、用いられる差異から、ここで再開発されるだけの現在とは歴史の中で鎮座する正解の中でしか答えを求められぬような正否の中でしか、自らを正解へと誘えぬように現在に転換される悪とは作られたものであるし、創造主を捏造し、何かを憎悪するための理屈を並べ、神々との闘争から、ここで倒錯するものを踏破できぬから、ここでつまずくだけに至り、何かにひたることで場になじむという幻想から、経験論をうながし、漠然とした悪意をむさぼるだけの幽鬼として存在する存在をそこなわせるだけの有徳さを補正し続ける真理などは、今にみちびきを生み出さずに一瞬の痛みで逸脱し、自らから離脱し、加算される痛みから生み出される戸惑いがやがて諦観へと移行し、その場で膠着させ、現実味をそこなわせるだけにいたるような即席の贖罪から、体系的なものがひろがり、何からの自由を奪う不自由を作り出すだけの製造から、相違し続ける限りに果てしない倒錯にいたるような無知さを攪拌し、あらゆる差異との衝突を繰り返し、その安全性をうたがわぬような全体主義的な容易さから、要因とは、何かを成し遂げる前に、ここであつらえられるものに依存することでしか、生きていることも認識できぬような生き方が正義というのなら、ここにある正義とは、清貧さを求めずに、何かを奪うための強盗であり、そこで統合されるものが用いる正常などは、そこに用いられる意味からはみ出さぬように、と用いられた答えに隷属する奴隷の真理であるし、そこで強制的に用いられる意味とはむらがる意味の中で繰り返しうながされる位置の魑魅魍魎であるし、みちびかれる意味とは、今に卑近なものに変わるし、ここであつらえるものこそが、今を悲観するためのシステムの中で垂涎する者の餌として補完され続ける心身とは、新体のための生贄であるし、あらゆる論理の中で売買されるような生贄として、その人生を真っ当なものだ、と認識するほどに悪に荷担し、何かを食するよろこびに遊びを用いるような残酷さを孕んだ懶惰な生を真っ当する。そこで保持する苦しみとは、理解を得ようと、何かを求めようとするほどに、苦しみとは増していき、いくつもの可能性を否定し、今にとどまるほどに、ここでの苦しみを補填し続ける。ここでさいなまれる意味との統合を目指すだけの正常が、ここでの差額を埋めるために文明の餌として、自らを儀式に投じるのだ、というようなアニミズムに倒錯していく原理的な我が子を葬るように、何かでがんじがらめになるほどに、そこでおどけ、おどらされるほどに愚かさを強調するような原罪こそが、いちばんの愚かさを含んで、何かを否定することだけが、ここでの進化を育むのである、と宣言するようなセンテンスに騙される以前に、内面性がなぶられ、今に観点に疎外されるだけの君の無知に迫る歯がゆさに破壊的な政治性から、清逸な主観を用い、短絡的な動向にひきずられるよりも、ここで要理を用い、林立するものなどは、邪魔なものに変わるだけだし、ここでバラバラになる主体は、探されることを待つばかりで、今にまじわることを知らずに、今に邪推し、何かを恨むような性悪説から逃れるべく、この意味とは位置を持たずに、ここでバイタルを増幅させるための創造性だけを蓄え、ここに孕むものが権威的なものに囲われ、加工された品位を用い、倫理を盾に、何かに取り込まれることを傍観するような諦めに屈従するよりも、どこに居ようが不安とは増すし、何を持っても、何も持っていなくても不安とは消えないものであるし、何かに追われるほどに、強迫観念は増していき、邁進していく今も、今に意味を見失い、自らを恨み出す始末から、姿勢は狂い、ここで何かに偏ることだけが、正しいことのようにあつかわれ、あいまいな今に始動していくものも、意識をしどろもどろに変えるだけにいたるし、ここで保たれる愛とは、継続されるものではなく、そこに契約すらもなく、ただ愛することすら思わずに、自然に放つような愛だけが、愛と呼ばれる前の、形すら持たずに、今に体系化する以前の愛が何かを強要せずに、理想論にいたる前の愛が病になる以前の時折にひずむ優劣が運ぶ優越感にひたる前の愛に帰り着くような感覚だけが善悪を越える。

強固


 遠くふるさとを失った君の無感情なまなこからあふれ出る慟哭は、道徳すら持たずに尊く、そこに儚さを充填し、あらゆる神秘は、進歩を否定することにより、身近に感じられるのだ、というアニミズムを超えて、何が神を用い、何が今を支配するのか、と論点をそらし、観点を強奪するような強欲なこころみが、またたくまに感情を奪い、あらゆる死に寄りかかる真理とは、今に隠逸し、倫理観を謳いながら、もちいられる孤独をむすび、まさぐられる感情がユニゾンし、優越感にひたるだけの陰りを生み出す勝利などはいらず、ここに敗者すらなく、形あるものが強請るだけの価値の強欲さに刺激を受けるのだ、とうながすような者の姑息さや、卑賤さにセンサーも狂うのであり、ここで理屈をこねるだけに寝返る意味が今を鞍替えし、簡単に処理されるだけの感情のたもとであらがうものを保存することだけに専念するような精神的な捻転から、今に弱者を迎え入れ、形作られた意味の中で真理を用い、何かを騙すように仕向けるようなファシズムの嵐が吹き荒れ、戦争的な彼や彼女たちの頭蓋骨に響くような戦闘機の重低音が、重点をそこなわせ、ただ闘うことだけが革命であるのだ、と宣言するような幼稚な企みから、ここに枠組みを用い、何かを締め付けるだけのいたるような使命感などがいたらぬ思いを強調し、ここで宣言を繰り返すことにより、言葉に重みを与えるかのように仕向けるようなプロパガンダが横行し、横溢していくだけの感情は、そこで指定されるだけの意味を精神としてとらえ、今にあつらえられる苦しみに容姿を求め、今に戒めをくわえ、恒常的な苦しみへと移行していくだけの今に意志はなく、ただしいたげられるだけの感情が環境などに責任転嫁し、供給される意味は、意思をそこなわせるためだけに相互理解などを謳い、同調することにより、強調されるものとは、強制力を用い、何かを権力的な圧力により支配することだけに専念し、蔑む感情から、捜し物もなく、たださまようような生き方は悪であるなどと謳うような体たらくなファシストどもが批判的にいたり、差別的にいたるまでの虚偽を用い、距離を生み出す限りに意味とは際限ない苦しみに住まいを見出し、生きることとは、その域で苦しむことに拘泥し、そこかしこ軋轢を生み出し、終わらぬ戦争へといたり、最終戦争などを謳い出すようなペシミズムの預言者は静謐さを知らずに、死のさわがしさから逃げるためだけに、何かをためらわずに騙し扇動することだけに長けていくのであり、そこで軽減されない痛みが用いる恐怖を利用し、何かを不安に追いやり、死へと誘うような快楽的な死へと共謀するだけの理屈は、理想を促すほどに希望を見失い、何かを追い求めるほどに、自らはおいてけぼりをくらうのであり、そこに生まれる軋轢により、苛まれる精神は、うとましく悶える現在に点在していく意識的なプロセスに反せず、ただうながされるままを流れると思わせられているような教育的なものから逸脱を行えずに、強制的に支援されるプログラムの中でのプロレタリアート独裁を叫ぶようなジレンマを自らに生み出し、刷新され、砕身し続ける辺りから、あらがう幼稚な企みが枠組みを生み出し、そこに正義をあつらえ、悪を見つけるほどに、正義とは産み付けられたものに疎外され、自らをゆがまされるだけにいたり、いぶかる先に長じる安易な正解は、軽快さをそこない、そこかしこに苦しみをリロードし、自らのこめかみを撃ち抜くための理由という弾丸を何度も補填し、何度も撃ち抜く快楽に支配され、些細な出来事は死を超過し、今に至る痛みにさらばえ、些細な出来事がリバイバルされる限りに陰る本質は、憎悪を蓄え、自らの中で惑溺するものに依存し続け、自らを愛することだけが誰かを愛するのだ、という勘違いを生み出し、自己愛から抜け出せずに、自らのナルシシズムが誇張される限りに愛とは愛することに依存し、自らの損得だけで愛とは偏り、そこに平等性を求めることにより、さらなる偏りを生み出すことに気付かずに邪推し続ける先に現れる普遍性などは、制度の中でしか強調できないような愛を愛として認識させるための強制力を孕み、今に興じる由縁から、こじれる先に生まれるいじらしいものをしたがえ、あたかも自らを有利なように仕向けるような欺瞞を続けるような虚勢や虚栄から映じる由縁などは、一切の意味を一貫させずに、ただ関する間に背反することもできずに今に続くことを続けるほどに、ほつれていく現在に補完されるだけの自己が自分を認識できずに、今に設置される意味へと継続していくものに保護されるほどに、自分とは失われていくのであり、ここで創造的なものを孕まずに、ただ同じことの中にも続けることにより、ますます創造性も増すものもあるが、その創造性とは認識することにより、創造性は膨らむものでなければ、そこに創造性はなく、作ることだけに重点を置き、何かを正しいものとして、今に腐敗していくようなものへと移行していかずに、そこで進化を遂げる限りに対価は生まれずとも、そこに現れるものは本物であり、何にも左右されず、任意などを求めずに、自由に拘泥せずに、そこで束縛されても、その中での自由になあなあにならずに、何かに方向付けられる以前に、ここで交互するものが正しくあろうが、正しくなかろうが、そこで老化することを恐れるだけの衆愚に巻き込まれずに、ここで構築されるものを作り上げ、何度も壊し再利用し、新たな創造へと変化していく辺りから変換されるものなどは、今を決めつけることだけに忙しい輩が示す尺度に振り回され、そこに現れる価値に利用されるだけに終えるようなものから今すぐ逃げ出すの、だ。

野良猫どもの恋を歌う
アイロニカルな羊たちが
旋律をかきたてるほどに、
懐疑的な日々に結末を用いるだけの
愚行を引きずるような廉恥や、
連動する意識を引きずる委員会どもの
私腹を肥やすような卑近な物陰から、
関連する事業的な
決議から生まれるものの
空虚さに過激な理想を
かかげるような連中が
仕掛ける罠にはまる。