昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

つんけんしとる声明

生きるんは、超絶としてるし、抱えても、ええもんもないし、ほとんど邪魔なもんばっかんやし、なしとげても、チクチク逐一痛いし、はびこる意味かて邪魔なだけやし、堅持しても、枯渇するだけやし、ほとんどは、偶像や、偶然やいうし、はばかるばかりで、助かる間からや、無くしても探さんと、ただ進む強さやったり、立ち止まらん、と煽るだけに、佇まいは、立ち所に悶絶し、たしなむ理由に利用されんと、確かな理由を放つから、誰かの正しさや、誰かに正しさなどを、押し付けられんと、押し付けるんも無く、ただ与え合うとか、絆とかも無しに、ただひとつの強いもんとは、何か?とかを探すんもあれやし、それは、はじめから備わるもんやし、そんなん理解して、理解されても、とりとめのない軽いもんやし、尊いもんは何ですか、と疑問視ばかりで、擬音的な楽しみも無いしで、思念は、死するままに深淵に陥り、どこにも帰らぬ、とか悲観的な感覚ひしめく哲学的な牢獄に投函される劣悪な手紙を受け取るひとひとりの猶予とかを掃きだめに吐き出すエゴイズムとは、こんな流れも卑屈な悠揚さを感じさせ、このアイロニーに老化しないなにものかが、備わっているのではなかろうか?と問いかける君も、どこ吹く風と曖昧なマインドと毎日に帰巣する本能だけで、世界性を保とうなど、とうつつを抜かすし、惨憺たる安易な落伍者うなだれる浪費される観念たる機縁から、渇するだけの状態に賛否を繰り返す永劫回帰的なヒエラルヒーから察知する本能は、混沌と昏倒しておるだけで、なにごとも、この場で老いぼれ、横暴な支配に契合されるだけの契約自体に錯覚を生み出し、誇張される詐欺まがいな言葉から引き出され、引き合いに出される欠如をモチーフに世界的なルサンチマンも生まれるよね、と長い哲学の狂騒こそが、都会的と呼べるのだ、と促す私は、帝国主義的な会社で社会的な軋轢を受け、学歴的な差別を受け取り、定価で売られる気持ちは、どんなん?としがない意識は拍動する意味にリンクせず、端的な憎悪にひねくれ、連動する意識は、超克を目指さんと、惨憺たる状態に打ち付ける磔状態で、退屈な誰かの恋を傍観するような観念が孤立していく映像を、乖離した状態で見るというカオス状態に陥り、記念日に画策する終末論的ペシミズムまんきんな戦争へと移行させるような破壊工作に陥る愚鈍なテロリズムが横行するだけの理念などに思想も無く、ただ支配的な関係を延々と生み出し、生み出される欠如により、権力的なものの暴走を止められずに、ただ連中の支配に気がつかず、神の名を騙り、カタルシスを生み出し、加工された品位でもって、終われない暴力に至るための病が暴走し続けることに腐敗する深夜は、仮想的なものの恐怖に震え、宛然に長ける思いは、枯渇するだけの状態に卑劣な支配の経路を迎合していく普遍的な悪夢がレクイエムを歌い、美辞麗句や、ビジネスライクな言葉を並べ、リアリティーすら失う現在に貧寒な理想ばかりが、この世をセンチメンタルに染めるだけに備わる自問自答は、統合されずに、ただ自らの境域をさまよい、おいしげ、横溢する自分の中でも住まいも、衰亡するだけに曖昧な根源に絡まり、関わるほどに、生きることに相対するんも、寸前で卑劣な支配を受け入れるだけやし、躍動する意志も、虐げられるだけに裂けるんやし、焼けただれ、アイロニーに生い茂る言葉のエントロピーも自身で焦熱さして、さしたる意味も見失い、仮死化するだけの世界を世界と呼んでるだけに過ぎへんような今を老子と共に歩み、やむこと無く、闇夜でも曖昧な砂漠をかき乱すような青春的な自我から、昏倒していく意識は投下されるミサイルを蹴飛ばし、落とした本人にぶつけるらしい、と他力本願な私は、世界などは、どうでも良いし、世界と呼ばれるものが世界であるなど、と信じたことも無いから、幼い頃から哲学に走ったのであるし、与えられた答えに反し、ただ関する出来事を解き明かす数理や推理が嫌いであるし、類推される出来事や、経路を決めつけられ、連帯感を持たせ、協調性を誇張するだけの教育に反し、小学生からアナーキズムをため込む中流階級的な卑下から、悲劇の回廊を歩き、悪しき魂でもって暴力を開花させては、呼び出される小屋で構造改革を歌うだけの原始的な政治性をかいくぐり、理念とは、強調されることに些細な言動を用いる現状を超越し、延々と演繹し、弁証法的に千切る互いの区画や、空間や、境界線に線引きせんと、ただ抗う限りに促す私こそが世界であるし、世界と名付けるだけに、世界に囲われるだけに過去に横暴に支配されるだけやし、ただ用いる是非すら是認し、従えるだけのアホの始末を、我が受けなあかんとは、アホらしいから、愛惜に震える君をそっと抱くようなリズムでもって、この哲学を帰巣させるような愛でもって、もつれるのも君と主体を綴じるだけに支配するだけに至らせるだけやから、私は足並み揃えんと、でたらめに歩いては、罰当たり、とか作られた義務やギミックや、作り出された神が促す定理よりも、我が生み出すことに清潔でありたく、整然とした純粋さでもって悪意に転じても善意に転じても、表裏一体であるし、表現は、構築されるだけに巧緻なもんを作りだし、用いる者だけが支配できる理想らしいし、そんなもんに虐げられる訳にはいかんための闘争だけが、闘争と呼べる訳であるし、そこに暴力を用いるなどはもってのほかであるし、用いるべきは、理解でも知でも無く、ただ反抗する精神だけが、聖域を超越し、たじろぐ意味に用いられる答えや規律すら飛び越え、まがいもんの王国を打ち倒すんや。