昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

何にも則らずに歌う

空間や時間に同化せずに、宇宙に同調し、浮遊するままに羽化し、気ままに羽ばたく。心情は、遥か無知に羽ばたき、ばたつく思いが耽溺をし、空間的な渇望から、抱擁され、包括されては、自らの時間から跳躍し、起源を持たずに、自らを押し上げていく。抵抗せずに流れるとは、身を任せずに、自らの意志を費やして抵抗することや妨げるものが生み出す自らの流れとは距離的なものも全く違い、ただ失うだけに足萎えし、ないがしろにする俯瞰からふかまる関係は、屈従を生み出し、階級制度を用い、新たな支配を次々に継ぎ足し、誰かを踏み台に跳躍することを超越とは履き違えて、流されるだけに屈従するだけでは、誰かの考えを複製し、そこに留まり、今を支配しようと目論むだけに至り、偽りを重ね、猥雑な消費を繰り返しては、手懐ける間に懐かしむほどに補正される意思などが生み出す体たらくから、たわめた意識も昇華し、メタ化していく意識は最も高いところから、深いところを見つめ、さらなる高みへと昇る先に昇華した意識は、意志を用い、自らの力で自覚する先に堅持すべき意味すら緻密に至らず、理解を施し、乖離していくだけに退嬰的なものに陥り、押し付けられる倫理観などに監獄に押し込まれ、社会性などを謳うことにより、支配の強度は増し、強迫的にせめたてては、立場を用い、虐待し続けることに用いられる悲劇に帰任する理由から、おざなりにしていく思いが、指定された区域で、自らを磔にし、自己犠牲の精神が生贄として、生産的な暗鬱さに帰結し、自らの浄化作用を履き違え、自らを昇華させずに衆愚的に扇動される快楽に自らを失い、衆愚的な傀儡として、快楽の下に、刑を執行される。磔とは、快楽を生み出す機械である。互いの同情をたしなめ、確かめる間から不和は生まれ、同調しようと目論み、自らのアイデンティティーが相まって、結末を牛耳り、迎えた朝が憂鬱に染まり、悠遠に溶け合い、未熟で無情な永遠へと疎外され、最たる意味を喪失し、失意の下に、その永遠に拘束され、捕縄され、足かせを引きずり、自堕落な世界を救うために、処刑台を登るような演技的な現実から、即座に観点は奪われ、意味に束縛され、作られた悲劇に、月並みな言葉をぶつけ、自らを快楽的な傀儡に仕上げ、そそのかされ、突き動かされるままに祭壇へと放置された身体が俯瞰を奪い、一点に集中する快楽たる権力により、一切の痛みは、今に昇華されたフリを行い、一過性に押さえつけられた不満や不安は、すぐさま襲いかかり、次なる生贄を探し、名無しの者たちがのたうちまわり、狂騒に混ざり合う不潔な混濁とコンタクトを取る輩が支配する社会に、支払う義務すらなく、用いられる義務などに虐げられずに、世界から逸脱すべく、いつだって正解とは、自ら生み出し、誰かに支配されずに、用いられる義務こそが、怠慢を生み出し、退廃に至るのである。

偏執する命は、傲岸不遜なものを打ち倒し、物事に興じられる快楽的な私物化を横溢させるだけの権力的な構図から放たれ、自らの高次すらも超越し、怖じ気付かずに、タオイズムに揺れる。陰湿なものを用い、支配に至ろうと仕向けることに簡易に長じるだけの若気の至りの軽さから、重さを用いるだけに普遍性に組み込もうと仕向ける間に偽造される真理が、枯渇を生み出し、あらゆるものに毒をまき散らかし、今に麻痺し、動けなくなる身体を傍観し、物事に諦観していく間に抵抗は固執へと変わり、繰り出される意味は小さな世界にとどまり、閉じこもるだけに統合をもくろむ正常さを謳うだけの成因から、一切は合併され、弊害を生み、その場で束縛される限りに即座に老いぼれていき、行き違い伴侶を喪失し、自らを未熟なものに陥れるだけに応答を繰り返す共通語から、共闘を謳い、ただ暴力的なものに同調し、暴力を助長し、増殖する意志は、ただ腐敗を生み出すべく、新たな権力をその場で引き出し、配される間に属するものを隷従させるべく暴力的に支配し、形骸化していく精神は、苦悩を携え、煩わしい思いに応じるだけの答えを答えとして今に蔓延らせ、配備される答えに相づちを強制し、普遍性に整合させるだけに静謐さは損なわれ、そこ作られた自由を謳い、今あるものこそが、世界を形成し、その場の素朴さを惰性なものに変え、妥協を生み出し、案じる思いに暗澹としたものを含ませ、複製される世界だけを世界として認識し始めることから、傀儡と化する心身が強制的に時系列に嵌め込まれ、阻まれる間に有する思いは、有限に捕らえられ、無限性を謳う限りに陰る命が今に屠られ、品行方正を謳う限りに謳われるものは、応じるだけの答えに反さぬ間に作用する物事だけを正解と捉え、途絶える命は、その場で座礁し、永遠にその場で構築されるだけの苦痛を浴びるだけに曖昧な毎日に追い込まれ、惰性な意志で意味を履き違えることから観念は、屈従だけを目指し、兌換され、交換されるものだけが、あたかも本質のように捉えることから離れることにより、理の深さは深まり、相対する物事をも飲み込み、今に至る痛みを除去させる。