昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

不自然な愛


詩人として語り合うべきは、風景であり、自然的にそなわる出来事を、おもしろく見つめる目であり、聞きそびれぬように、聞き耳立てる今にそなわる風が促す秘密である。確かめるとは、激しいだけでは、駄目であり、 包括し、互いの愛を敬い、高め合う事に愛は、代償や支払いを義務化せずに、ただ分かち合うという意識すらそぎ落とし、互いを高める事に重きを置く。継承し、継続するのは、前衛的な昇華である。物事から超越した理論を用い、大義へと至る意識は、出来事から跳躍し、懐疑的な日常を超克し、自らの意志を乗り換え、あらゆる意味を超越し、現れる出来事から乖離し、あらがう意思だけが大義を用い、あらゆる出来事から超越し続ける意識は、何の犠牲も気に留めず、自らの意志が赴く限りに冷徹になる。冷徹な意思は、あらゆる根元や権化を破壊し尽くし、地獄の業火へと論理を突き落とすことすら、気に留めない。我々は、ひとつの原子が情報に変わり、遺伝子になり、担うべき意味を引き継ぎ、因果な銀河を形成する所以へと引き伸ばされ、絶えず宇宙的に敷衍し、普遍的なものを疎外させ、自らの世界へと咎めも無く、広がり続けては、拡充される意味や、内面的なものを攪拌させ、止まらずに、あらゆる場所や意味を移動し続ける。自分が嫌いであるとは、行き過ぎた自己愛によるものである。自己啓発などは、自己決定できずに、何かに従い、自らの意志を失う。哲学的に存在までも問わずに表面上で誤魔化す意思などは、所詮誰かの意思であり、まがいものの真実を刷り込まれて終わる。理想に燃えた正義は、偏りを生み出す。あらゆる原理は凝り固まり、拘泥し、理由を漁り、動機を漁る。理想に燃える正義は、自らの意思に焼き尽くされ、あらゆる意味に退廃していく。愛とは、混ざり合う激しさではなく、溶け合うことによる、深度である。若いというのは、何かを偶像化し、崇拝すべき対象を見つめ、自らをも昇華させ、超越へと至るのだ、と語る意志を持つ者の背中は、硬質なものを蓄え、何事にも屈さず、身近な、ごく身近な死をも、端的に受け入れているようだ。あらゆる動機は、想起する瞬間に、陥る簡易な闇に引き込まれ、意味を見失い、今に倒錯していく。私になびく出来事は、つれづれなびくだけで、事実や、真実すらも持たずに、ただ何かに引き込まれ、流されるだけの若さを櫓櫂していく。矜持を用い、誇示しているものなど、自己の中で孤立していく。時間から乖離した過去は、どこにも無く、用いるものなど、瞬時に消え去る。そこに手繰り寄せた過去などは、どの時点にも左右されぬ。


数十年、数百年を乗り越え、数千年に隔てられずに、意思で超克し、意味を超越し続けていく人間を超えるという壮大な事業へと。人間とは、愛を確かめ合う必要があり、用いられた愛などは、不幸の皮をかぶり、被害者意識を増幅させ、憎悪へといたる愛にしか満たない。


哲学があれば、ずっと爽快であるし、従う理由すら、その思う理由すらも無くて、すらすら描く先にまとまりが無くても、飛べる。哲学とは、跳躍であり、高次へとすぐさま飛び立ち、準備すらもいらず、あらがうことにある答えすらも、不潔であり、惰性である、と。


システムの外へと逃れ、純真無垢さを横溢させる。世界は、依然として、世界としか名付けられておらずに、ただ意味として、今に立ち尽くす。異なる出来事を組み立て、世界と和解する。永遠なんて、次々来る自分の背中にタッチして、今を続けるようなもんだ。問題は、その段階に阻まれても、淡々と続ける意志が、永続するかどうか、だ。哲学が死なない限り、私は、死なないであろうし、やがて死すらも超越し、感じる時間などは、今そこにあるものに弊害を生み出し、露骨な支配に至るだけ、だ。そこに迫る気配は、何もかもかき消し、あらゆるたらればは消え去り、さりゆくままに、理論をちょうだいし、超脱するあたりから総和し、動機から調和し、あらゆる中和から、自らの対立を打ち消し、謀る思いがにじむ感情から、悪夢をたずさえ、交わる間から、確かな愛がピークに達し、嗜む間から、確かな愛が、自らの力で飛び立つのを見つめる優しい目よ。その優しい目が、嫌い合う世界から逸脱し、阻まれずに、阻まずに自らを統合せずに、分裂するままに愛し、構い合う間から、確かな愛を委ね、すみずみまで愛する行方を探しては、疲れた身体を癒し、いぶかる言動を超越し、あらゆる論理に荘厳なものを生み出すのが、愛ゆえに現れる落ち度や、力を含み、物事の軌道を確かめ、あらゆる愛に帰還していき、確かなあいだけが、たゆまずに引き合い、互いの愛に惹きつけられ、自らの愛に帰り着く。