昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

生命


 時間は後からやって来て、無益なものをちりばめ、意思に罵声を浴びせ、カタルシスを無理強いし、思惟を虐げ、従える意識を隷属させる事だけに専念するセンテンスが横行し、受理するものも仰ぎながら、生命の原点を奪うためだけに、ためらわずにことごとくを盗み、屠る間から、緩慢に作用し、戸惑いを生み出し、路上で屈辱を溜め込み、制限を生み出し、くみ取る意味に不自由を感じながら、肝心なものを損ない、ないがしろにする瞬間から加点されるものや、物欲しげに見つめるあの子の衝動や、証拠も無く消え去るのが、生命であり、その終わりに狭められる意識に場面は転換され、典麗な風景に澱みながら、老いるのが、この過程であり、そこで加点されるものなどは、数字に変換され、同じような動機にフラクタルである事だけを強調され、整序される間や、規律を謳い、用いられるものに閉塞感を感じながら、観点に疎外され、生活感などを謳い、奪われる意識は束縛されるだけに抗い、抗うほどにきつく結ばれ、無数の意思が、根源を失い、攻撃的に至るだけのうたかたに使命は混濁し、ここに残すものなどは、どれも無意味なものであり、今の均衡を保ち、機能に従順であろうとするほどに、反撥するのが、意思であるし、その意思を否定してまで生きようとするのが、人間である事の哀れであるし、そこに哀れみを感じ、同情へと浸るだけの連中が示す差異などは、自らを報うための犠牲的な乖離から生み出されるニヒリズムに浸るだけの行為に順応する事だけを目的に、信仰心へと浸るためだけの怠慢を加速させ、自らの罪の意識に無知である事が、純粋な信仰へと移行し、その純真さだけが、審査をくぐり抜け、意思の傀儡として加工された品位と倫理を保つ事だけに専念し、宣言をうやむやに改造し、加工された品位だけが、利己的な支配を続けるような権力へと成熟し、静謐な思いは、今に混淆され、位置づけられる苦しみへと服従する事だけが、しあわせに近付くものである、と抑圧される限りに陰る本質は、真実が何であるかを知らずに、仮想するものに対面し、誘われる夢の中で由縁を失い、ふところに隠す苦しみを拡散するだけの正義が著しく屈折した苦しみを舞台に吐き出すころには、独善的な芝居を続け、自らを昏倒させるだけによがる精神は、成熟する事も無ければ、言葉に虐げられ、従える意識は、外観で圧迫され、自らの意思を監視下に置かれ、自らを監視し続ける間に生まれる憎悪を敷衍させ、複製される真実だけを誇張させるような余韻に迫る狭い価値から、懐疑的な日常に散漫な意識は、分断され続け、意味に固執するほどに、そこで補足されるものの魯鈍さに気付かずに、機械的な意思を開示し、乖離し続ける先に意思を残し、引き連れる意味を引き替えに、今に屈従する事だけが、自由に至る鍵である、と示す間に怠慢なものを重ね、懐疑的な日常に貸し借りを続け、廃れる日常から悟性概念を引き取る間に、卑近なものに陥るのが、知の誤りであるし、そこで用いられる事をすべて受け入れるほどに、拗ねてねじれるだけに至るのが、知が用いる甘さであるし、そこにあいまいに示される答えなどに偏る限りに変性したかのように見せつけるだけの超越は、膠着するだけに至り、行為にもとづくジレンマを抱え、何かに固執する事だけでしか、答えへと導く事もできずに、出来合のものを信心し、信じ込むほどに、こみ上げる意思は、あいまいなものを模索し、今に悔悟をため込み、乖離する意思が、開示するものに左右され、意思を損ない、そこかしこにあいまいな理念を用い、理想を追求するほどに、誰かを不幸にするのだ、と促すような普遍性を謳うだけのコマーシャリズムに支配され、理想を損なう事でしか、人はしあわせにはなれないのだ、と促すようなプロパガンダに支配されるだけの意思の犬どもが示すセンテンスだけが、世相を裏付けるものであるなどと促すような国家的な偽装や、まやかしを受け取るほどに、受け入れる言葉を請け売りにするような者が促すような否定から、批判的なプロセスを生み出し、文化的な理想は、供給される苦しみを藝術的に昇華できずに、自らの創造性を費やす事は、愚かな行為に変わり、物事に代価を生み出す事で、創造性とは麻痺していくものだ、と虐げる間にも否定的な何かは、今を卑下する事でしか、先に進めないような脆弱な意志を抱え、プロセスに反さず、運命に従う事でしか、憩いの場を見つけられずに、帰る場所などを求める間に、自由な精神などは、自由である事を求めるほどに、その自由である事に妨げられ、何が自由であるかも見出せずに、自らを屈従させる事でしか、自由を判断できずに、そこに現れる自由などは、苦しみから逃避するための身代わりでしか無くなるような自己を蔑み、そこで捧げるだけの自己などは、利己的なものにぞんざいに扱われ、意思に屈従する事でしか、意味を見出せずに、今に欺瞞を促し、即座に騙される意思は、意味を見出そうと必死にもがくが、もがけば、もがくほどに深みにはまり、阻まれるだけに至る意思は、今に主事を損ない、自らの判断もできないから、と破壊的に至り、暴力的に示す事でしか、自由を表現できず、ただ、孤独を恐れ、自らの空虚さに立ち向かう事もできぬから、と自らを放置する間に生まれるたゆみにちゃちな理想を掲げ、理性をリセットさせ、思想を植え込むような洗脳が横行し、媒体する意思は、干渉するほどに、陥穽を生み出し、仮象へと嵌め込まれるだけの自己をこしらえ、意味に依存する事でしか、理性を保てぬような孤独を知らぬ馬鹿者どもが示す克服や、幸福論などは、意思の外で情緒を保とうと示す間に疎ましく迫り、狭い価値で過ちを加速させるだけに至らせるだけの定理や定義から離れ、自らが生み出すことこそ、姑息なものでは無いか、と怪しみ、怪しむ先に超越するものこそを、本当なのか、と、そこに企みは無いのか、と攻め入る間に屈従するだけの意思を捕らえ、その意思を昇華させるべく、いつわりのものを排除し、どこまでも上り詰める意思が恐怖すらも失い、ただ、達観に浸るようになれば、その意思とも別れを告げ、どこにも属さずに、十全とした意識で、簡単なものに処理されずに、そこに抵抗し続ける限りに陰らぬ精神は、正式なものが何かも知らぬからこそ、自由である事も求めずに、何かに慣わしを感じずに、感化されるままのものを愛する事すら考えずに、愛し始める事だけに収斂していく意識は、物事の確かさを求めるよりも、今におぼえも無く、すぐさま忘れる事で、阻まれずに、厭う事無く進む限りに生まれるものと対峙し続ける事で、より正解に近いものを見出すの、だ。