昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

風を待つ者


 どこにもルーツを持たぬ君は、不自由やふぞろいなものを掲げ、散漫な意識の奴隷として、考えるほどに不安に苛まれ、今に痛ましく攪拌され、最低限の至福を追い求めるばかりで、何がしあわせかすら理解もできずに、ただあてがわれるものを、あてがわれるままに愛することに磔にされ、軽減されない痛みを抱えた儀式的な夜に葬られる自己や、ジオラマみたいな夜の街にこぼれるあいまいな汗のしずくが快楽を表現し、眠らぬ街に闘争を企て、惰性な意識で拘泥する者を虜にするようなデカダンスの夜から引き出す意味から、位置的な苦しみを引き取る卑近な悲しみから、心証にたぎる恨み辛みを構造的な排除へといたらせるような余韻から、因果律に反し、宇宙的な痛みを引きずるだけの君の意図から、そなわる季節に抱合される悲しみのあらわれを模写するような藝術的な伴侶を引き連れ、悲観するだけの思想とは、その場で気付くことにいたらぬような罠を踏み、複製されるだけの真実に加工され、一切は、実存主義的に昇華され、ここで存在を誇張し続ける自己との対立を続けることによぎる絶望を越えるのだ、とうながすキルケゴールが放つセンテンスのドル箱を持って、加算される原理に注がれる可能性などは、可能世界の中でのパラサイトとしてしか生きることもできずに、今に不和を生み出し、強調されるものへと奔走していくことだけに専念することだけが、ここに一縷の望みを託し、あらゆる論理を崩壊させるような破壊的な進路を生み出すベクトルから、ここで幼稚な企みを施すような破壊的な意志とは、自らの力で動くことができずに、何かに与えられる影響だけが、自らを動かすのだ、というような勘違いからファシズムへと移行し、自らこそが高尚なものであるという選民思想から、選択権とは、何かを排除し、監査され続けるだけの惰性なものを動かすためだけにためらわずに何かを蹴落とすことこそが勝利へといたるのだ、という考えが及ぼす悲劇から、卑賤なものへと陥るだけのカタルシスから、カタストロフを生み出すだけの闘争から、大差もなく、ここに掲げられるだけの勝敗や等差から、換算されるだけの意識の経路を進む処刑されるだけの感情から、あいまいなマインドに幼稚なプロセスを生み、何かを踏み台にすることでしか正解も導き出せぬような連中が示すような制度などに英知はなく、そこに刻まれる意味だけを緻密なものに変え、機密事項である、とジレンマを抱えるいじらしい制度から、西欧主義的なものから抜け出せずに、永遠性を放てずに、話すことがアメリカニズムに支配され、言葉はジレンマを抱え、自らをアレルギー症状に導くだけにいたるような堕落を横溢させるだけの宣言から、散々な歴史の告発人として、競合するだけの意識は、キャピタリズムの中でリリカルなものを見出せずにシニカルなままで死に関与する商人として、あらゆる意味の商品価値を探るだけの消費的に荒むだけの感情がデリカシーもなく情報に扇動され、専横されるだけの意志とは、今に意思を損ない、そこに現れる力に屈従するだけにいたり、いぶかることを知らずに構築されるものが誓うものへと占領され、そこに区域を持たせ、何かを分け距てることの性差から、制圧されるだけの今にいたるような儀式的な苦しみの住まいへと押し込められ、ここで拘泥し続ける位置的な苦しみに専横されることにおける苦しみを再活用し、そこに生まれるジレンマを解き放つような欺瞞を商売に変え、加算される意味だけが、今を価値付けるものであるとうながすような独裁的な者が描く真実などを信心することで、ここに現れる苦しみを誇張し、自らに溜め込む苦しみから依存的な情交へとドライブし続け、加速する意識は、加算される原理を超越し、倫理にまじわる始まりを壊しながら、原子と共に高揚し、宇宙にそなわる物質が祖先であり、ここで分け距てるものが生み出すような主義などは、短絡的なものしか生まず、ここで闘争を生み出し、終わらぬ意味を追いかけるようなジレンマが他者を制圧しようと、また隣人を恐怖に陥れようとするような企みから、枠外へと放たれる意識的な疎ましさから、謳われるものだけが、真実を誇張し、ここで真実とされるものだけが、死の恐怖を外に追いやり、生きている感覚すら失わせるような正義や制度から離れ、ここに現れる世界などは、認識しなければ、世界でもなく、そこに境目もなく、現れるままにそなわるものだけが善悪すらも越えて、ここに現れる意味に位置すらもなければ、何かが欠けることもなく、ここに現れるものが愛すらも持たずに、ただ現れ混ざり合うことに理屈すらもなく、そこに陸地すらもないのであり、ここに現れるものとは空間や時間を補完するための器官や機関のように扱われる以前に、ここに力を加えれば、何かはうながされ、何かは屈従し、流されるままや、流されるままに反応するものを正解などとも認識せずに、ただ与えられる影響とは、物事の代償を謳わずに、ここに含まれる物質的な猶予だけが、こしらえられる意味から超過していき、権限すらも持たずに、権利すらも謳わずに、何事にも屈さずに、ただ現れるままを体現するような生き方だけが、世界に正解なども求めずに、求めることに始まる倒錯こそが、何かに偏り、屈従することを知る。