時を乗り越える者

時間を超える意志的な現れ

肯定的な夜に飛来するもの


 哲学とは、精神をかき乱し、むしばむものを昇華させるために存在する。せいぜい、そこの距離を埋めるために存在するわけでもないが、すり寄り、歩み寄れば、優しい存在である。宿命に反したまま、行き過ぎる風景を網羅するような刹那に嘆ずる所以や夢がしりぞき、寝ぼけ眼で乖離した世界を傍受する。当たり障りのない風景が関する合間に残り少ない愛が開け、簡単に処理されるほどに今とまじわる先々で乖離する心情がほどけ、おどけた真実がのさばる前の自分に帰りつく。あらゆる原理が理屈をこねる朝に浸透する、しんみりとした行方は、誰もが用いる狂気を利用し、散漫な意識に限界を用い、何かにとまどう主体は、戒律をまとい、自らを戒めることだけに専念する。捻転する意識は、儀式的なものを超過し、数々のジレンマが時代性を虚ろなものに変え、問題性を孕む以前に、ここでのさばるものが、卑屈を抱え、軟弱な精神を駆除する前に、ここで関連するものに固執していくことに現れる強迫観念が、簡易なものをかかげ、自らを監視することで強化される監視されている、という意識が引き出す卑近なものが促す価値にカスタムされる。未熟な観念が生み出すまぼろしや、幾重にもからまる意味合いに屈折していく精神が指定するものに孤立し、あるいは、その場で束縛され、自らの痛みに費やされる現実だけが、現実のように感じさせるギミックから解かれるべく、生きたような実感をさずけるすがすがしさなどが示唆するものなどは、たよりないものであるし、その場で満ち満ちていくものなどは、今に完結していくほどに、夢のようにしか思えぬものである。命とは、その場で完結するものであり、その場で感じたものだけが、今に兼ね合い終焉をむかえる。その場で考えるものとは、今に置いて行かれ、継続するほどに、その場での苦しみを膨脹させる。そこでさからい続ける意思だけが、意味を越えて、高潔なものへといたり、高尚なものに転じて行かぬ限り、その場で卑屈になるだけであり、かたよった精神は、今にひたることだけに関係していくものを恨み出す始末である。あらゆる言葉は、そこで緩慢に作用し、そこで孕むことなどは、答えにみちびかれるための経路をあたえるだけのギミックを超越できずに、そこでこしらえられるものに依存し、自らを損得で決め込む辺りから、善悪とは今にのさばり、理性を越えられずに、そこであたえられるものに抑圧され、些細なことで傷つく現在に転化していく苦しみにより、否定的なものに陥る。そこで肯定すべき意志を身につけるよりも、そこにあたえられる影響を越えて、硬質な意志を作り上げるための哲学が存在し、あらがうことでしか、正解とはあたえられずに、そこで本能的なものに摩耗された精神は、今にひたる答えに安易に引きずられ、卑屈になる。担うべき意志は、そこで解脱することばかりを考えるような安易な悟りが示す刷新が及ぼす破壊的なニヒリズムに対抗するような意志を企て、惰性に示されるものに閉め出されることを恐れるばかりで、そこで怯えるだけの意志は、堕落したものを堅持するのであり、そこで誇示するものが免じるようなものが、惰性な判断だけで、答えに乗っかり、自らの意志を損なうことに陥る欠如から、そこで接続されるものが示す尺度に追い出される恐怖にいざなわれ、不安に人格を奪われるのであり、底での『欠如』を埋めようとするほどに、逃げることを忘れ、その場で追い詰めれることにより、今に襲われ、誰かの意志の傀儡と化す。関わるほどに、関係とは権力を用い、ことあるごとに示される意味から尺度は生み出され、今を埋めようと詰める意識は、難癖をつけ、そこでこじれるだけにいたるような精神は、正否を用い、根幹を奪うだけにいたるような困窮から、自らを疎外させ、そこで生じる苦しみの『サイクル』へと陥っていく。自らを肯定すべく、生命とは躍動するのでもなく、そこにもたらされる宿命により、自らを誇示することもなく、そこでこじつけられるものに怖じ気付くこともなければ、そこで転じ、意味を不潔なものに変えるだけの戒律から、懐疑的な日常から逃避行を続ける意思だけがジプシーとして、吟遊詩人として生きるような結末に退く間からあいまいなマインドを放つだけの精神的な苦痛を昇華させ、そこで消費することだけに専念するよりも、そこで求められることに応えることだけが、答えを導き出す鍵であるのだ、などとうながすような即席の自由を越えることから、自らを超越し、あたえられるものを超過し、そこで現在から引きずるだけの存在を切り離し、次々に新たな自己を再生していくのが存在を超越していく仕組みであり、そこでの苦しみとは、そこで引きずることにより強化され、そこでさえぎるだけの意思が生まれ、そこで対立を深めるほどに、捕まる意識は、延々と苦しむことだけを敢行する。そこに現れる苦しみなどは、瞬時に飛び越えられるものであり、飛び越えるために存在する。そこに現れる超越こそが、自らを止揚し、そこで高められるものだけが、互いを恨むような原因から抜け出し、そこで線引きするものや、生み出される壁を壊し、誰かに愛されるためだけの愛が生み出す欠乏から抜け出し、惰性にみちびかれる答えに抑圧されずに、自らの考えだけを飛躍させていく。そこに現れる苦痛とは、飛び越えるためだけに存在し、そこで苦しむためには存在しない、そこで考える苦痛とは、考えがみちびく幻想であり、そこで真実のように語られる苦しみなどは、欺瞞を含んだエゴを用い、何かをモチーフに何かを傷つけるための演技を続けるような傀儡が示す鈍磨な感情を移行させるためのシステムを用い、誰かを騙すための倒錯を生み出し、境目をあたえることにより、そこでの苦しみも倍増していくことから逸脱するのが、生きているということであり、そこで生き抜くことを思うよりも、そこで要理に反することだけが、人間自体を飛び越える。