昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

理性から超え出るもの


 何にもなびかずに、自由に飛び立つ者は、おびえることを知らずに、不羈なままで不規則にうかぶ現実を濾過し、逡巡するだけの意識的な諦観から放たれ、度重なる苦しみも、へっちゃらに、平衡するものなどは、偏向するだけにいたるし、やがて生命はとろけ、統合されることだけを目的に整合され、参照されるだけのものを引きずりながら、卑近なものに変わり、偏執するだけにいたる精神は、やがて自らの怒りを増幅させ、腹心にためこんだ黒々としたものに混濁し、出し抜けることだけを考え、還元されるものだけが、この物語で重要なものをおびていくのだ、とおびえた本質は、おぼえもないものを信用し、それが示す値に相対し、対抗し続ける先に老けようがお構いなしに、自らの意志をつらぬくことに革命すら不必要で、そこで与えられた大義などは、主義を懶惰なものに変え、自らを高め補完する思想などは、そこでの目的を見失い、ただ、自らの意志の中をさまようだけにいたるから、適当に歩いて、照り返す光で、闇夜を切り裂いて、名付けられた道をけとばし、倦怠感を与えるだけの簡易なものに聡明もなければ、そこで変化していくものなどは、観点を失い、自らが見つめるものにすら不安感をおぼえるような恐れから逃げ惑い、そこで怖じ気付くよりも、簡単に処理する現在に諦観はなく、ここで空白を生み出すだけの戸惑いが、運命を浪費し、やがて、何かを恨むことだけが、自らをなぐさめるのだ、という哀れな理想から逃れるための高尚へとひたるだけでは、何事も、その場でとどまり、透過できずに、不透明なものや、不潔なものを哀れむだけにいたり、悲観するだけにいたるのであるし、やがて、うやまうだけの理想は、理性をそこない、何かを保つための戦争へと移行し、自らの痛みを昇華させるための絶え間ないペシミズムが終末論を謳い、ロジカルなものを消費しては、散漫な意識は、形式的なもののに捕らえられ、惰性に生み出されたシステムの虜として、コマーシャリズムがうながす理想の家庭像を取り込み、統合される先に生み出されるのは、正常という異常であり、その異常に気付かなければ、先に進むことはできずに、そこでの甘い汁を吸うことを目的に枢要なものをそこない、考えることをやめてしまい、考えるものとは、狂ったものである、という理不尽な方程式の中で軽蔑されるべきは、否定し合う、この意識であり、ここで軽薄なものを育て批判するだけにいたるよりも、肯定的に抵抗し続ける先に現れるものだけが、孤立しても尚、自らを育成することだけに専念し、宣言に隔てられずに限界を生み出し、淵源で嬲られるだけの今に簡素なものを謳うよりも、ここで関連するものを否定し続けることだけが、あたかも昇華にいたり、すべてを弁証法的に高めるように思えるようなものなどは、容易にひるがえされるべきであるし、何かをひるがえすために哲学は存在し、そこで抵抗し続けることだけが、自らを高次にいたらせるのであり、そこでいたらぬままでも、そこで何かの気配を感じ、感化させるものを読み解くことだけが、どのような状態であろうが、自らを越えることだけが、今を専念しているように思い込むことも、自らの誤りに気付き、起動されるものが謳い上げるだけの文言を信用するよりも、ここで神聖とされ、聖戦を謳い、精神を奪うだけにいたるようなものを信心するよりも、自らを高めることだけが、互いの動作をうとましく感じるべきだ、とうながすような隣人愛的なものに同化するよりも、何かを信じる以前に、何かを信じている自らを信用することだけが、真実を破砕し、ここで正しいと示唆するものなどは、何かを奪うだけの呪詛のように感じるのだ、とうながすような左派的な考えから、何かを保つために指導を加え、同じ目的に進むのだ、とうながすような右派的なファシズムへと移行する途端に加工された品位を未だに守るべきだ、とうながすような保守的な理想から、理性を捨て、平衡へといたるための暴力を枷に、自らを高めるような急進的なリベラリズムから、輪唱されるものが聞こえるから、と何かを破壊することに転じるだけの理想とは、血を流すことを目的に、自らを高めていくのだ、ということに気付き、それを恥じることから、自らは高まるのであり、互いを恨むことを目的に主義を聳立させるだけの多目的な媒体に奪われた主体は、ただ、破壊することだけが、自らを昇華させるのである、という勘違いを含ませ、そこで洗脳されるだけにいたるようなポピュリズムがこびへつらう体制や、体系に閉じるだけの理想とは偏り続け、そこでカタトニーにいたり、自らを喪失する先に奪う合うだけの理想とは、理性をそこない続け、そこにアナーキーなものを謳う中流階級的な悪名高い革命へと移行するだけの堕落した観念では、平和を謳うだけで、自由を利用し、理性をそこなわせ、そこに現れる不安に打ち勝てずに、破壊的にいたらせるのであり、そこでの終わりをうながすだけでは、何かを創り上げることもできずに、あてがわれる自由を利用し、理性をそこない続け、行いに正しさを強要し、自らを正しくするために何かを利用し、自らこそが正しいのである、という勘違いを孕み続ける。