昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

清廉


 意識の隅々にみずみずしいものが染み渡り、自然回帰を謳うよりも、現時点であびる鼓動が慟哭することにより、連綿と深まるものが、普遍性を越えて、淵源に果てる永遠性や、制限を持たぬ精神が生み出すものとシンクロし、ここで黒々としたものを生み出すよりも、絶え間ない生命の活動に重ねることにより、自らの痛みは昇華し、木漏れ日が歌うフラクタルな呪文や、商業的なずさんさを謳うよりも、ここで形成されるものの意味を悟るよりも、ここで軽薄なものを用い、何かを支配しようともくろむよりも、欲望うごめく都会を否定するよりも、要理になびく不浄をなげくよりも、ここで健気に敗残していくものが提起する理由にこじつけられる痛みが複製していくだけに聯立していくものに腐敗していくよりも、ここで身を寄せ合い、確かな愛をあそばせる契機から、形成されていくだけの言葉に邪魔されずに、時代性が用いる陰鬱を有史以来はこばせるだけのあいまいな市場を飛び越え、記憶にむすばれるほのかな優しさにゆらぎ、誠実を用い、何かを構築し、構造的な排除を謳う法に偏る心情に屁理屈を述べるよりも、リベラルを用い、統合されることだけを目的に進む精神主義にいたるよりも、その場での自分をそのままに愛することが、よりよいものを謳うよりも、ここで占われるものに阻害され、苛まれた今に枢要なものをそこない続け、行いに転じ、自らを束縛するだけの理由に疎外していくほうが、よりよいものを見つけられるのであり、そこで見つけたものすら見つめ直し、自らの領域をさまたげるような卑屈をかかえるよりは、自らにいたるもので足るのだ、と受け入れることにより、何かを憎むことをやめ、清潔な自己を保てるのであり、ここで蔑むだけの記憶は、自らのはじまりを否定し、そこでまじわるものがはじまりを告げるのだ、という勘違いを含ませるだけの理想を供給するように仕向けるような理由から、疎外感はふくらみ、そこで応じるだけの答えに流されるままでは、自らの勝利を確定しようと仕向けるような法の中でしか、自らを認識できずに、ここで深まる意味へと到達できずに、その場で淘汰され、問い質す間に貫徹すべき意志すらそこなわれ、そこで習ったものだけが、物事を形成し、そこでの正しさを表現するほどに、何かとの差異に囚われ、自らを永遠の捕囚として崇めるだけの悲観的な観念が生み出す関係性に取り込まれ、同一化を求めるだけの愛は、自らの孤独に耐えかねずに、偏った理想を用い、理性をそこない、獣のように生きるために毒されていくような主体性は、体制にこびへつらい、自らのつらさを昇華できずに、何かと自分の痛みを重ね、その痛みを消費していくだけにいたり、いたわることを忘れ、自らを道具のように扱うことに現れる偶像と偶然の間で卑劣な闘争を続けるだけの消費的な毎日に締結していく理由も、貧寒とした意思をたずさえ、何かを否定することでしか、自らの正当性をかかげられぬような価値だけを用い、闘うことの意味を履き違え、自らを苦しめることだけに専念し、厭世観をたずさえ、演出されるがままに緩慢な理想を組み立て、立場を利用し、領土を奪うことだけに専念するような闘争から、投影されるものに偏り続けた理想は、間違いを認めずに、そこで提携されるものへとひずみ、いぶかる先に堅持する現実から、原理的なものに偏り続けた価値は、自らの価値を守るための破壊活動を続け、派生する意識は、何かを保つために、その力を利用し、何かを守るために摩耗していく意識は、何かを守るための暴力を続け、つたない意識は、そこで法理へとむさぼられるためのバクテリアのように繁殖し、寄生を続け、自らに帰り着かずに、戒律の下で裁かれるために、この罪とは、今に用いられた苦しみを消費するのだ、という惰性な達成感を確認するために、さらなる破壊を推し進め、自らの正当化を目的に誰かを攻め入ることで増していく快楽が提起するものへと偏り続けた意志は、自らの大義のために犠牲になるものの意味を知らずに、ただ自らの意志が堅持するものに偏り続けるほどに、自らの意志に苦しめられ、自らの理想を謳うほどに、理想と現実との懸隔に耐えかねず、自らを破壊するように、外へと破壊的な意志は敷衍し、自らの意志を保つために、理性をそこない、そこで転じて行くものに抑止力を与えられずに、ただ破壊することを目的にしていく。あらゆる原義を瓦解させるだけのプロパガンダが進行し、指導者が与える影響のままに鋭利なものをそこない、そこでなあなあに推し進めるものだけに行動を左右され、最たる意味をそこない、理屈を捏ね、理性をそこないながら、生きることのより生まれる義務などに指図されるほどに、この命とは、むかむかしたものを溜め込み、軽薄な理想を掲げるものへと偏り続ける。そこで返事を待つ君は、今にしいたげられ、そこで複製された真実を崇めることだけに精一杯だ、と妥当なものをかかげ、惰性な生き方に転じて行くほどに、抵抗力は失われ、そこで反撥するものか?はたまた、ままならぬままに流されるままに排除されていく生き方に転じて行くかの二択を迫られ、そこで崇められた価値が生み出す答えだけが正しいもののように崇めることだけに専念し、そこで演出されるものだけが、自らの正しさを示唆するのだ、と信じ込むことを余儀なくされていることに気付くべきなの、だ。