時を乗り越える者

時間を超える意志的な現れ

無限性


 無にそなわる無限性が、今を引き取りながら、永遠性へと移行し、自らの苦しみを昇華させる間に宇宙的な調和など求めずに、ただとどまらずに進む限りが、永遠へと引き伸ばされる心身を崩壊させ、交換し続ける先々で対立する価値などは、表面的なものしか交換できずに、ただ陰湿なものに変わり、こぼすアイロニーが否定的に物事を捉える途端に物事とは、構築されていくものを否定し、自らの力だけが、この位置に求められるものに反し、関する合間に情念は消え入り、本質的なものを見失い、ただ有るものへと移行し、行為が引きずるニヒリズムを超過し、混沌としていく宇宙の端くれで、愛に似た物質を探し、空間を延々とさまよう間に引き戻される過去には、高潔なものはなく、そこで美徳のように崇められ、都合良く変化するだけの過去の出来事などをリバイバルするほどに、自らと乖離し、そこでの面影にひたるほどに、現実との懸隔は生まれ、自らの不自由さを嘆きながら、そこに用いられる差異に苦しみ、徒に消費されていく現在に諦観を生み出し、関係するほどに完結していく現在は、指定される義務や、応じるだけの答えとの平衡を求め、終わらぬ闘争を生み出す限りに用いられる統合が正常を謳い、求められる限りに、軋轢を生み出し、何かを踏み台にしながら、自らこそが、正しいものだ、と認識するほどに誤りが生まれることを直しながらも、自らの正しさを求めることを知らずに、途端に現れるものに表現を奪われ、自らの意志で何かを創造的に昇華できずに、簡易なもので惰性に築いたものが、障壁に変わり、自らをごまかし続ける間にひしめく理由が、流動性を失い、喪失感にただれていく感情は、誰かの思いを借りて、むさぼる現在に無為なものを用いずに、ただ現れるものを買い取ることでしか、自らを満足させずに、そこに現れる優越感に敵愾心を持ち、持たされた義務や、もたらされるものだけが、自らの用いるものを満足にいたらせるのだ、という処刑台へとのぼらされるだけに最たる意味はそこなわれ、磔にされる自己は、礎を持たずに、ろくでもないものをかかげ、意味に墜落し、自らを抑圧させるだけにいたらせるようなものに取り囲まれ、加工され続ける間に強調されるものや、そこでまやかしを生み出すだけにいたるようにうそぶく者どもの手中に収まり、はばまれるほどに、自らの闇に陥り、鬱々としていく思いが、今に自己犠牲を唱え、何かを救うためだ、とうそぶきながら、何かを騙すためだけに、自らを生贄として捧げるふりをする。無を用いるほどに、似通ったものが、似たようなものを生み出し、限り合るものに合わさるものだけが、枢要なものとして崇められ、そこで物質的な余裕を用いるものだけが、真理を持ち出し、物事に軋轢を生み、無限性へといたらずに、幼稚な理論に偏りながら、何かを傷つけることだけが、美徳のように崇められる限りに人間が生み出した神という逃避から、怠慢にいたるだけの崇拝などを捨て、長い歴史などは、ただ長いだけであり、そこで引きずられたものに提示され続ける苦しみに偏らずに、そこでバンダリズムにいたるような閉塞的な野蛮人どもに手を貸さずに、ただ自らの表現だけが、存在を明らかなものに変え、そこで求めることに飽き足らず、破壊するだけのよろこびに転じて行くだけの抵抗などは、抵抗しているようで、抵抗にいたらず、そこで自らのさまたげにもがき、そこで正しいとされるものに占領され、そこで洗脳され続ける間に生まれるシンパシーも、何かとの調和などは求めずに、ただ純粋な衝動だけで動くことだけが、正しい働きなどとうながすような正しさを崇めたてまつるほどに、退廃的なものに陥り、強要されるままによろこびは増していき、そこで邁進するものが、定期的な罰を与えるほどに、自らにほどこされる意味との調和をめざすべきであるのに、他者を介し、或いは神を介し、自らの惨めさを消費し、そこで逍遥し続ける間に生まれるジレンマが、育むという意味を忘れ、ただ迫害され続ける恨みを加速させ、介する間に巡礼を続け、つたない意思は、汚いものを疎外させるほどに、自らの汚れには気付かずに、そこで応じる否定とは、自らを綺麗なものに見せつけるだけにいたるような自尊心が今を支配し、健全な者としての芝居を続け、そこではみ出さぬように、と思えば思うほどに、何かとのズレは生まれ、そこでのズレを埋めようと求めれば求めるほどに、何かとの懸隔は生まれ、ことごとくに支配される限りに、ここで遠のく本質は、自らの正しさすら見出せずに、ただ正しいとされるものに支配され、そこで続ける芝居だけが、今をしあわせに変えるのだ、という普遍的な屠殺場に運ばれるまでの軌跡をたどり、対価を求め、役割を終えるためだけに、むしばまれる現在に、生きてるなどという幻想をかかえ、簡単に処理されるだけのまやかしを崇め、そこであがなうだけにいたる権力的な者が支配を続けるほどに、ここでの芝居は、三文芝居になり、誰もが、そこで騙されているふりをしている。