昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

振り子


 蓄積されていく君の苦悩も、いつかとけて、記憶の奥底で急かすだけの理由などは、愚鈍な者が運ぶだけの理由であるし、やがて滑落し、そこで自由を謳うよりも、そこで感化されるままに飛び交う意志は、怯えることも忘れ、そこで煩い、諦観するだけの連動から放たれ、そこで託つものや、枯渇させるだけの物事などをしりぞけ、軽薄なものからエクソダスするためにためらわずに、続ける意志だけが、しいたげられずに、ずっと続くままに耽り、短絡的な衝動が汚すだけの言葉に攻め入られながら、この生命とは、娶られるためだけに、ここに現れるのではないし、やがて溌剌と突きぬける限りに果てしなく綴る意味だけが、ここで断続し、そこに生まれる段階を踏まえるよりも、ここで生まれたままのものをためらわずに愛することだけが、知るということであり、考えるということであり、ここに踏まえるものなどは、何かに踏みつけられ、ぺちゃんこなままであるし、習慣的な何かが気だるく物事をとらえる限りに、あつらえられたものや、あつかましいものが今を従え、何かを屈従させることだけを続け、旋回する意識は、退廃的な願いを唱えるだけで、何かを叶えることを知らずに、ここで過ぎ去るだけの過去などは、ここでのシーンや神話を溶かすためにあるのだし、そこで思い返しても、何かを削るだけだし、何かの虜なものは、自らの欲望に支配されることが「自由」である、と騙る限りに陰る本質は、真実がなんたるかを知らずに、なんであるかを求めることだけが、自由やしあわせに支配されずに、気配を隠し、攪拌し続ける先に意思し続ける限りの影を生み出すだけに社会などに何かを求めるよりも、そこで場所を求めるよりも、何かに囚われる以前に何かを割り切れないから、と自然的なものの段階にのぼるほどに、退屈は、しのびより、死よりも恐ろしい生を謳うだけのペシミストの言葉に支配され、芝居を続けることだけが、ここで生きながらえるための秘訣である、という卑屈から、観念とは、何年も先までねじまげられ、ゆがんだままの思念は、がんじがらめになり、担う意味などは、所詮、邪魔なだけであるし、ここで締結する物事に襲いかかる哀れや、そこで充填されるだけのまやかしや、そこで信仰する意味がシンドロームを生み出し、はみ出すほどに未来はきっと輝くはずなのに、ここでしいたげられ続けるほどに慟哭を続け、鬱陶しいものが、よりよいものを謳い出すほどに、価値とは転換期を誤り、自らの夕闇で補足される悲しみに咲き乱れる痛みにさいなまれ、最たる意味をそこない、そこで蓄積される苦悩は、陰鬱なものを溜め込み、自らのメロディーをそこなうのだ、と詩的なファシストが用いるセンチメンタリズムが戦地を生み出し、豪壮な時折にひずむ彼女が路地裏で生み出す支配的な構図や、アンチテーゼに止揚されるだけのことごとくが合理的な能動性により、意識を剥奪するだけの原生に潜むアイロニーから、原理的なものを持ち寄り、何かを悲劇的なもので加工するための神を用い、自らを修養させるほどに、自らを見失い、神と同化するほどに、自らはそこなわれ、そこで横暴な支配を生み出すだけの惰性な者が謳う神などは、神にいたらずに、ただ、短絡的な支配を生み出すことだけをセオリーとし、自らを騙すことで、自らを崇めるように仕向けるための神を捏造する。枢要なものをそこない、ここで行いを改めるべきだ、と慌てふためく君は、記号化した夜に思案するほどに、快感はそこなわれるのだ、と苛む思いに相対し、退廃的なものをかかげ、鬱積するものに屈するほどに泡となる日々は、隣に愛するべき者を、ただそなえることだけが、ここでの行いを正すのだ、と渇する思いは、孤独を体感できずに、ただ、何かに流されることに偏りを示すような面影に悲壮し、たなびかれる思いは、恒常的な苦しみを普遍的なものだ、と眺めるだけに日々は終わるのだ、と汚穢を垂れ流し、自らを逃避させるために求める先々に現れるものが屈折していき、逸脱することを愚かだ、とそなわるものを崇めるものが、購うものなどは、ほとんどの価値をそこない、そこに論難を生み出し、敵をふやすために体系的なものに偏りを示し、そこでカタトニーと化し、加算される原理に襲われながら、応じる答えは、そこで締結していき、指定されるだけの意味に刈り取られる意思は、何かを勝ち誇るための虚栄や虚飾のための自己顕示欲を加速させ、権利を謳うほどに、堅実なものはそこなわれ、そこで苦しむだけにひたる意味の中で完治しない苦悩を待機させ、期待感をあおるための欺瞞を吐き出し、満足を満たすための闘争を続け、しょうこりもなく破壊し続ける先に断続していくものに切り裂かれる心身は、存在すらも消え去り、増していく空しさに耐えかねずに、自らを破壊するように他者や世界をも破壊するためのニヒリズムを加速させ、やがてルサンチマンにおちいり、ペシミズムにひたり、何かを作り直すための破壊よりも、純粋な破壊だけに移行し、自らを破壊するように、何かを破壊することへの快楽にひたることをひるがえすために、ためらわずにそのような思想こそを壊す。