昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

心因性に濡れるため


 心因に現れる闇を疎外させるための恒久的な理想に相似する存在が多目的に流動し、降り続けるリリカルな雨にフラクタルであり続ける論理的な夜が恐々としたものを晴れさせるために肯定する限りに、飛躍を遂げるのだ、と惰性にみちびかれるための安易な肯定へと接続される意識などは、外から働きかけるものに操作され、動機を不純なものに変えるのだ、と仏教的な諦観から、宗教的な指針などは、今をごまかすためのまやかしであり、絶えずシンクロしていく問題に凍てつく精神は、正否を求めるばかりで、そこで迎合されるものを引き取り引きずりながら、卑近なままに生きながらえ、絶え絶えになる思いは、集約されるための約束を交わし、不埒なものになりかわり、かけがえのないものを用いるほどに、かけちがえるものであり、限りあるものとは、そこで生まれるために契約された愛にもつれ、もたらされる痛みは、互いの理想により、端的に引き裂かれるための契約を急ぎ、そこで永続されるべき愛は、消費されるための空虚さへとみちびき、そこに現れる空白を埋めるための愛は依存的で、そこに孕むべき純粋な愛を取り違え、途端に苦しみだけを仮想する横柄さに巻き込まれ、愛とは幻想であり、そこで対価を生み出すための価値を持ちより、互いをとがめるための理想は、理性を失い、何かを恨むために偽装された愛は、互いを引き裂くためだけにためらわずに同調するだけの苦しみを引き取り、同じような答えの中でもがくだけの意識などのいっさいは投棄され、そこに溜め込まれる汚穢や、即席の自由が用いる闇に引き込まれるための悲観を植え付けるだけの答えにより、意識は、外から働きかけるものがみちびくものだけが真実であるなどとうながすような者どもが見下すような主観におちいる瞬間を流浪し、本質的なものを見失い、見くびる先におちいる闇は深まり、俯瞰を奪い、空間的な苦しみから、そこでかかえる屈辱的なものへと偽装される精神は、制限をもたらされ、用いられる苦しみを乱立させ、自らを苦しめることだけに快感をおぼえる。横溢する瞬間に持ち寄られる正義に偏るだけの正しさだけが示唆するものを正当化させるためだの正しさを植え付けられるための教育から離れ、枢要なものへと変化していくための正しさを捏造するだけの現時点からも放たれ、持ち寄られる正しさとは、悪を生み出し、自らの正当性を謳うだけの原理に基づき、そこでとめどなく現れる正しさなどは、何かに偏るための犠牲を生み出し、物事に制限を与え、現在を苦しめるだけに至り、貧寒な現在をたのしむような知を用いずに、そこで現れる苦しみへと引き込まれるための生贄として存在するのだ、と都市間に現れる悲観的な構想をひるがえすために体制的な発展などは、帝国の理想を叶えるための歯車として幼稚なたくらみの枠組の中で発散されるための犠牲を孕み、自らを正しく昇華させるための「照合」から、等差を生み、動作は不潔なものに変わり、不正を糺すための退廃的な理想から、理性は制限を用いられ、自らのいらだちに耐えかねずに、自らの苦しみを他者に移し替え、自らの苦しみを昇華させるか?はたまた、そこに現れる苦しんで居る他者に自らを重ね、自らの苦しみよりも、誰かがかかえる苦しみのが重いのだ、という法的な処理から、ただ苦しみと同化し、今に惜しむほどに、押し入られる苦しみにすべてを奪われ、そこで苦しむことだけが、正しい事のように語られることこそが、本質を捉えているのだ、と惰性にみちびかれるだけの宗教的な偽装から、そこで犠牲になることが正しいことのように語られることにより、自らの苦しみを浄化していくように思わされることにより、自らの正当性と同化し、何かに固執し続ける限りに渇する間に照合される正しさだけが、鬱積するものをとりはらうのだ、と達観する間に何かを見下すことでしか消費できない苦しみを利己的に浄化させることにより、自らの否定的な神を育てるだけに至るような対話から離れ、すべてから乖離し、理解を得るための闘争から、そこで統合される正当性などは、誠実さを謳うほどに嘘を重ね、自らを正しい者のように扱う先に厚かましく入り交じる正当性などは、制限を用い、自らが用いる密度により、有する価値に帰巣するための正しさをうそぶき、自らが用いる正しさだけが、正しいことにみちびくように思わされる間に去りゆく形式などを追いかけずに、自らの軽率さに敷衍する正しさとの照合などは、正しさへとみちびかずに、同じような答えに巻き込まれ、体系化していくだけに至らせるような正しさなどをシェアするための同化などは、道化を生み出し、対立を生み、介する間に理解すらもできずに、幼稚なままに判断し、未熟さに植え付けられるだけの正しさなどは、何の正しさにもみちびかずに、ただ正しいとされることだけに偏り勝ち誇るための価値から、ただロストしていくだけの正しさに追従し、自らを正しくしようと目論むほどに止揚できずに、生産的に現れるだけの正しさなどは、精算されるために持ち寄られる正しさの中で整合される闇を生成し、自らをもっとも暗い位置に置き、自らを見えにくくすることだけが、正しいことのように語られる深夜にもとづくものなどに迎合される者どもの卑屈で幼稚なギミックに算用されるために存在とは、存在として現れるのではなく、そこで持ち寄られるものを書き換えるために現れる。