昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

論理からの飛躍


 接続される観念が捻出し続けるものが気だるく散漫な儀式をたずさえ、整然とした空間にたたずむいっさいが起源を超えて、短絡的な同化を終えるだけの風景に継続していくものが飛躍を続け、途端にひずむ時間との対立を深め、空疎な時間に卑劣な風が迫り、すべてをふきとばしていくような前衛的な対立から、いっさいの動機とは、ここで終わるためのものをあたかも永続するかのように仕向けるような価値に向けてカタストロフを与えるためだけにロストしていく時間から逃れ、整然としていく意識は、系列を超えて、物事の対価が麻痺させるだけの価値を乗り越え、ここで理を用いる以前に、ここで喪失感をたずさえ、怠慢な論理にかかずらうよりも、その場で敷衍していく要理に反し、関する間に卑近なものをたずさえ、それをエゴだ、とののしるよりも、そこで要理として崇められるものを正しいもののように扱うよりも、後続していく過去を切り離し、ここで起こるものこそすべて、と現実主義的な価値が用いる存在論などから離れ、関するほどに強制的に認識させられるような存在などは、この場では不必要なものに変わるし、何かになりかわるよりも、代償を求め、何かを否定するよりも、ここで価値を求め、用いられるものに補足されるものに空疎な悲劇を折り重ねるよりも、改善されずに、ここで苦しむことだけを目的に逍遥し続けるものが延々と演繹し、宛然とした証拠や兆候を示すだけの価値に送り込むべきことばの爆撃機が迎撃し続ける過去からの遺物を即座に破壊し、改ざんされるだけの世界にまやかしを生み出し、打算されるものや、そこで採算合わせに走るだけの空疎なものなどが与える価値などは、所詮はすぐさま消え入るために絶えず欲望を放つだけの毒素である、と偏りを示す者が打ち出す証拠により、傷を深めるような闘争から、そこで倒錯し続けるだけの偏りなどは、本質的なものに近づきもせずに、ただ反することだけが、自らを正当化するほどに、自らが示す正しさからは遠ざかり、自らと相反し、蔓延る悪意は、あいまいに示唆されるものの規範として攪拌され、退廃していくだけに終えるような現前のものなどは、そこで売買されるだけに終えるような現状に消費される思いは、統合されることにより正常に変わるのだという幻想から離れられない限りに、確かなものから分裂しない限りは、正しさに収納されるだけの空白としての存在や、何かの受け皿として存在する限りに他者から与えられるイメージだけが、存在を確かなものに変え、存在を物に変え、存在を足枷に変えるために用いられる世界の奴隷として、隷属するほどに高揚感を失い、ただ束縛される限りに固陋するだけに至り、わずらわしく背負う義務から、犠牲的な精神は、正否を持たずに、善悪を問う限りに回答を持たずに、倒壊していくだけに至る存在に何度も織り込まれる正当性などを引きずりながら、存在とは、卑近なものに送り込まれるものだけが正しいもののように案じるほどに、暗示される精神は、正否を用いることにより、こじれる後先に宛先もなくさまよう手紙のように、あらがうほどに届かぬ思いをこじらせる間に結末を破壊し尽くすためのペシミズムをかかえ、世界を終わらせるとは、自らを破壊し尽くした後にも世界とは世界として存在する限りに継続するものであり、誰かの終わりにより、接続される対象により、延々と世界とは認識され、何かが年老いても尚、足りないものをただ短絡的に埋めるための愛が確かなもののようにたしなめるような退廃的な理由を連綿と綴る間に簡単に消費されるだけの間隔に用いられる緩衝されるための役割であるやわらかいからだや、あたたかいからだは、今をふんだんに昇華させ、そこに愛は無いように語られる異様さなどは、愛を理解できずに、そこで簡単に消費されるものとは、あたかも悪のように語られ、確かなものなどは、「その瞬間に備わる確かさであり、正しさを足枷に変わる前に昇華する愛だけが、愛を愛と語られる前の純粋さや、純真さを保ち、瞬間的に愛するものだけが、愛を超越する」のであり、そこで野ざらしにされた記憶は、罪の意識をかかえ、独善的なものは、愛を簡単に消費するな、と快楽に逃げるな、と語るような性悪説こそ飛び越え、そこで姑息な支配を続けるだけの宗教的な誤りを超えて、独創的に進むことだけが、ここでの価値を無価値に変えるよりも、すべてに迎え撃ち、そこでの正しさなどを謳う以前に、「用いられるものこそすべて」と語られるための傀儡として生きるよりも、劇的な飛躍を遂げるために反することこそ正義と呼ばれる以前のプリミティブな正義であり、犠牲を孕む以前に生まれた原理的な愛である。