昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

要衝


 悶える意識も誰かのものだし、ここで連続する物事も統合されたら最後、誰かと永久に消え去るのだ、と分断される瞬間との永久の別れを連想するだけの刺激的な高揚感や、融合されるほどに、ここで融解し、快癒できずに、愉快に離れ離れになるだけの事柄が迫り、ここで死に絶えても、永続する瞬間とは循環する映像のようなものだ、と物語にカタルシスを求める死の恐怖と、死へと欲動していく凍てつく大地で代用品として過ごした意味がスタッカートに変わり、構想されたものから外れ、蔓延る悪意を充填するだけの空虚な身体を茎に変え、偏執していく意識は、そこで固執するほどに強固なものに変わり、魯鈍な森羅万象に運ばれ、派生していく四季は、配膳される以前を食しながら、構造的な本質を殴打し、もう立ち上がれなくなっても引きずる意識的な汚穢や、季節的な終わりをひしめかせ、貧寒な理由をコード化させては、短絡的な同化を終えることが、同一性を保つほどにもたらされる悲劇を加速させ、意思を枷に変え、考えとは生み出されるものである以前に他者から与えられ、絶えずわずらわしいものを背負わされ、義務に苦しめられ、ここでのよろこびとはこしらえられるものであり続け、つたない意識は儀式的に消費され、生贄とされるだけの散漫な季節の愚かさを重ねては、たんたんと過ぎ去るだけの由縁や、空疎な自分を補完するためのよろこびや、そこでしあわせと感じるものなどは露骨な支配を続け、追憶にひしめき流動する景色を磔にしては、参画するだけの幽遠に潜む架け橋をわたりきる前におとしいれられるだけに至るし、裏切りは延々と続くのだ、と構造的な腐敗を告げる権力的な緩慢さを背負う空間などを引き裂くために私とは産まれたのであるし、あらゆる方向から迫る法を超えて、孤高であるべく、弁解を続けるよりも、強靱さを求めるよりも、そこで求められるものなどは、ただ短絡的な同意を求めるためだけにメタファーを操り、暗鬱な衝動をたずさえ、正義を使い、何かを悪に仕立て上げるのだろうし、その者からすれば正義の行為であっても、誰かからすれば、それは悪に変わるのだ、という善悪の二分法から抜け出し、ニヒリズムを設立するだけのルサンチマンが織り成す進化などは、起算されるだけの物事の中でさえずる記憶を惨状に変えるだけのまぼろしを断続させ、ここで継続されるものなどのどれもは、完治しない苦悩をまとい、今を機械的なものに変え、迫る気配は、軽薄な理論をたずさえ、君の意思を奪い、示威をまといながら、敵愾心を増幅させ、幸福であるとは、何かを蹴落とし恨み続けることで満たされるのだ、と野ざらしの記憶にいぶかるだけの結末から逃れる先々で対立する生と死にすら背反し、配備される原因などは、変換され、限界を生み出すための機能に出力を与え、結果を生み出すだけの下限から、厳選されるだけのあまりある今に複製される瞬間的な活力から、渇望するだけの欲に原理を移し、そこで保たれるものだけを基礎にし、力に支配され続けられるような機械的な労働の酷薄さを謳うよりも、疑問を打ち出す前に、今に生まれる観点などは、手懐けられた答えに名付けられたものを持ち上げているだけに過ぎず、そこで求められる償いや、過ぎ去る過程に採算を合わせるだけの今に色あせずに自らを信用するよりも、信仰に近いような叫びを従属させるよりも、自らを含んで世界を世界として認識するよりも、世界を世界として認める以前に、みちびかれるよりも、満ち足りずに、みちみちと生まれる欲との対立を続けるよりも、ここで揺動されるほどに揺れる風景がエモーションをうながし、リリカルなものが運ぶ詩的な昇華から、逍遥を続けるここから、こころすらも捨て去り、そこであてがわれるものとの融合をめざすよりも、そこでとけあうことで形を持ち、形を認識するよりも、ここで統合されることをめざすよりも、そこで何かとして仕立て上げられる前に、浸食していくものとの不一致をめざしながら、反することにより、そこによりかかるものとの対立を続け、反することで反芻せずに、枢要な価値の家畜として、答えをむさぼるよりも、貪婪に季節を化膿させるだけの可能世界からも外れ、未熟なままに成立していく予感や余韻から放たれ、恬淡なままに手懐けられずに、不羈なままに奇想天外な今を解析するよりも、悔悟をためこむだけのダメージにも反し、関する由縁から放たれる。