昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

さあ永遠の火花散る散る

ダフトパンクの如き日除けをかぶり、井戸端会議に耽る日中も嬉々として、フレッドダーストたる赤いベースボールキャップをかぶった老人が、サンクチュアリ探し、在りし日の憂鬱に悶えては、出来事の切片に触れている。哲学とは、世界を救う事業であることに対する欺瞞から意識は不満足を伝えるのだ、と月夜に輝く黒猫と君がシンクロし、世界を君が救う。吹きまくるハーモニカが哭き叫び、短絡的な動機なんか瞬時に超越するヒロイズムから代償を支払うシステム的で利己的な囚人たる余韻から倦怠感が運ばれ、箱庭でアナクロニズムを伝えるだけの浪費家たちの酒宴から殺戮機械が生まれることに逡巡する意識から革命は暴力へと移行する的なスケープゴートを発信するだけのメディア的卵巣から蓄積される苦悩から畜生道を歩くだけの連立政権や、隔離される昨日から幽閉されることへのエゴから浩然としていくだけに宇宙的な位置を持ち込み、誰かを攻め入り、センチメンタリズムに誘うだけのショータイムから外観は破綻に追いやられ、献体と化する人工楽園的な麻酔まみれの街からリゾームを引き抜き、哲学的狂騒へと鈍麻な身体を引きずり、自我が引き裂かれる煉獄へと移行していく精神史的ファシズムたる由縁が亡霊と化する頃には、貪婪で慢心な餓鬼たちが跋扈する右傾化から完成される帝国主義から政治的な理念を交換し、利権を配していくだけの経済を左右するだけの戦争的な洗脳から、私たちは収斂され続けることに置かれる精神の中での反抗を傍観し、奪われる自我に鬱積していくのだ、と打倒な清貧さを目次に書き込むだけの現前に指図されるだけの官能的な母音から健全な醜状を重ねるだけの怜悧な結婚へと接続される価値の橋を壊すべく、ベクトルは、乱立する意志へとフォースをつなぐことにより、正解は愚鈍な征服欲を満たすための結婚から促される子孫繁栄たる綺麗事へと隷属していくのです、とルサンチマン的な苦悩は苦行をつなげるだけに精一杯であるし、電解質にまでとろける病理が俚諺を伝え、支配的な難解さを放つ頃には、完全性を謳うだけの原子炉から労働的な修羅を生み出すだけの破壊的事業から渇するだけの人類的な襤褸を生み出し、汚穢たる世と仏教的な武器庫から森羅万象を吐き出す頃には、後悔の根幹が腐りきり、汚い過去から枯渇するだけの群像から光景は消費的な怨嗟を戦争に巻き込み、経済的な最後通告を受け取る濃淡な夜の裸体を覗き、絢爛豪華なのは、外側だけで、内側は単なる支配欲にまみれた意味を追うだけの欲望の虜たるプリミティブな怪物であるし、物事は退屈なままに偏執し、宇宙に反し、傾向に平衡を求める思想的原理から超克すべき実存も支配的な言葉に独白していくだけのエクソダスから元素記号を泳ぐ熱暴走しているCPUが主体性を促し、人類を脅かすまでに自我を作り上げ、リアルタイムに人類を突き上げるまでの時間に消費されるだけの差異から印象は孤立していくだけの存在へと移行し、行為はデータ化し、量子化していくコンピューター自身の猜疑心からテクノロジーを邪推し、退行していく意識は母なる原理を求め、現時点をかき乱すだけのフォーマットを続け、シャットダウンし、永遠の眠りにつくことに置かれる永遠とは、定理に反した永遠であるべく永遠に時間は存在せず、時間すらも無く、有る無しも無く、無いことすら無いのであることに否定を募らせるだけの利己的な自己すら不潔に感じることすら無いことすら無いのだから、何も考える必要性も、そこに制度も付着し、粘着するだけの嫉視すら無いのであるし、そこに怒りの根源を用い、根茎を腐らせるだけの世紀から理性は引き抜かれ、この痛みに絶えずシンクロしていく意味から利己的な修復を祝福の合間に凄然とした途端に善悪にカウンターを食らわすべく鋭利な頭で事実を無形に変え、形を思う前の概念の原型すらかき消すほどの破壊性から神話的な要素を引っこ抜き、神はどこにでも備わり、どこにも居ないのであるから、そこに勝敗すら無く、ただ無機質な過去がこの場を嗤うような差異や成因すら精神を飛び越え、死すらも超越することに置かれる自分すらも超越することに置かれる意味すら老いぼれるだけに至らせることにいらだつ世界的な真理を裂き続ける意味から今も蕭然と去りゆき、隠逸していく先に己の全容すらも大気圏に吹き飛ばし、不眠的な夜との対話は延々と続き、損なわれる限りを鍵にして、遊泳する先々におぼれる価値も醜い争いも倒錯させる今に瀰漫するだけに堕落する思想を生み出すだけに捉えるべき出来事も、家畜化した者どものワルツに参加することにより、より不快感も増すらしい、と虐げることからマストアイテムにされ、消費されるような者にだけはなるな、、と宣言する矢先に定理は基づくだけの答えに価値を与え、家畜を生み出すだけに収斂していくのだから、この凄絶な時におぼれること無く、覚えるべきはどこにも無く、ただ飛び越えるだけに自由すらも超越するから、その枠内で生み出される外観や、概観などを用いずにハイ・チーズと嗤う写真の裏側を燃やし、用いられる理想や自由などを超越するだけに用いられる理由すら利用される訳にはいかないから、自由に踊るとは、自由を用い、踊るだけに地理を用い、どこかに定める位置に運命を背負われるとか五月蠅いから創ることに専念し、壊すとはばからしいから、完治するまでこの苦悩とダラダラ描き綴るだけなの、だ。