昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

弔う意識の影


 無意識が生み出す絶え間ない夜に逃避行を重ね、具現化されるだけのエゴが、映像化されるだけに、迎合されるものへと偏る市民的な憂鬱が生み出す革命も、その場で抵抗すべき理由を損ない、単なる暴力へと陥るだけに至らせる契約から、荷担される税や、形骸化していく意思的な汚穢や、応じるだけの答えに兌換される価値から、プロセスは虐待を受け、センチメンタルな幼少期を形成し、理想は、供給される痛みへと弔われるだけの価値的な称号を、自らの嗚咽で組み立て、制限を用い、証拠として与えられるものを懐疑的に磔にし、朗唱される真実も、具体的なものを損ない、そこかしこで抵抗を生み続けるだけに打算がはたらき、はびこる悪意へと転移していく意識的な拘泥から、公然へと吐き捨てられる主体的なエゴが、倫理的なものを、独善的に締め付ける変わりに乖離する自己をいけにえとして、いにしえから用いられる儀式的なものへと捨て駒にされる自己嫌悪を繰り返し、自己犠牲の精神にもとづくセオリーこそが、エゴイズムの根源である事に気が付かずに、ただ自らの嘔吐を啜るだけに至るような悲劇的で劇的なエモーションを獲物にして、指定される義務へと齟齬するものが、昇華できずに、ただ自らのエゴの食い物として、犠牲を仰ぐだけの社会的な井蛙者どものアイロニーや、老獪な者が示す権力的な普遍性が持ち出す英知の欠片も無い、利己的な商売にもとづく経済至上主義的な快楽主義へと解体されるだけの移行から、行為とは、元々の純粋さを失い、ただ悪意へと転換され、旋回する意識は、ただ失うものを、動物的に求めるモラトリアムへと逃げ込み、行動を論理的にとどめずに、ただ行為にもとづく本能へとうごめく自己顕示欲や、内面的なナルシシズムの脅威が、やがて自己愛にとどまらずに、肥大化する自己愛が、窮境へと追い込まれ、安易なニヒリズムへと転換され、物事を破壊するだけでは、飽き足らずに、人の世界にまで踏み込む領域にせめぎ合う意思的な汚濁が、自分を愛するが故に、自分すらも、その汚濁に飲まれ、簡単に処理する苦悩は、自身の内外に暴力的な意思を用い、刃向かうものすべてを切りつけるだけに至らせるような強行から、競合し合う意識的な周辺には、陥るだけの闇が形成される。ただ刃向かうものとは、自身が作り出すだけに満たない巨大な影が、やがて自身に怪物を生み出し、蒙昧なままのルサンチマンは、やがてすべてを否定し、被害妄想が突きつけるだけに、自らの意思は、自らにより操作され、理想を追求する余りに、用いる思想により、すべてを破壊するだけに至るようなアイデンティティーが遅滞を生み出し、犠牲的に示す擬態化した仮の理想へと送り込まれる他者からの苦痛を抱えた、空疎な自分へと辛辣になりきれずに、ただ対象とするものへと攻撃は激化し、原生のものを破壊し尽くすだけに鬱積した利己的な自己へと送り込まれる暴力性から、根源から用いる理想へと帰巣する真理にもとづかずに、ただ浅薄な者は、短絡的な暴力で、退廃的なものへと作り上げるだけの虚偽を攻撃するだけに至るような幻想を繰り返し反芻するだけの理想へと供給される自らが生み出した贋物の価値を浄化させるべく、ベクトルは、際限も無く生み出される怒りを増幅させるためだけに、自らの激情の住処を荒らすためだけの二面性を自己に用い、異物感を抱えたまま、慢性的な痛みへと記号化されるだけの思考から、改ざんされるだけの数多の痛みへと応じるマゾヒズムに偏向していくだけの意識的な折檻を受ける仮死化した自己にもとづく恒久的な痛みへと浸りきる感情は、来す意味を受け取るよりも、自らに与えられる痛みにより、生きた心地を与えられているかのように仕向けるだけの自己へと改ざんされる自我が、時間の感覚や、空間的な認識能力すらも損ないながら、そこかしこで乖離する自己を傍観すらもしない離人的なものから、カタトニーに至るまでの規律へと拘束される論理的な敗残から、排斥されるだけのエゴへと葬られる意味に侵攻していく戦争から、専横されるだけの抑圧を受け入れる形だけの平和から、併走していく真理にもとづくエゴからあふれる世界とは、ただ外側から与えられる影響で変化するだけの退行へとすぐさま陥り、裁かれるだけの観念へと遡行していくだけに、修繕されない自己は、利己的なままに、何もかもを否定し、悲観するだけに、我関さず、と自己から離れていき、いくばくの可能性すらも否定するだけに、自らの世界をカタストロフに追いやるほどに、魯鈍なものや、ロストしていく心情が、路上で廃れ、疲れた世界へと屠られる前に、自らを正すよりも、ただこの世界に理解を求めず、自らの認識を深める限りに、つかまつる意味に捕まえられるよりも、司る意味に誓いを立てるよりも、近似するだけに、似通ったものを、違う価値でちぐはぐにしては、様々な価値へと交換されるだけの世界などを形成するよりも、自らの価値こそが、正しくも間違いであるのだ、と誇示するだけの意味に価値を当てこするよりも、自らを組み立てる意味にもとづくセオリーに反する以前に、ただ現れるものに寛容であるべきなのだ、と。