昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

進化


 悲しみが染みいる裏通りには偏見はなく、ただ無関心だけがその場を漂い、誰でもない今を誰かになりきり傍観するだけで精一杯だ、と君は泣くが、君は機械であるし、そこで回帰するものが永遠性を含み、その場で延々と同じ動機を繰り返すことすら知らずに、不自然な自己を調律し、確かな音程でリズムに乗るようなリスクを背負い、そこで自傷するだけに至るような生き方か、簡単な快楽へとのぼることだけが正解です、と促すような快楽主義的な同胞が方方にまとわりつき、信用を謳うほどに、ふりむくものは、ふりむかぬ者を騙そうと必死になるし、そこにあるものなどは、その場で這いつくばり、破壊されるだけに至るし、関係性から逸脱するほどに、そこで補足されるだけの悲しみを混ぜ合わせたような要理に悲観するだけの制度から、散漫な意識が災難をでむかえ、ここで成立するものなどは苦しむだけを延々と続けることだけが正解へと導くもののようにおののくから、君は苦しむ限りを堪能するのであろうし、そこで閉鎖的に意思を重ね、自らの考えの重たさになびくよりも、ここに現れるものを、現れるままに愛するというシンプルさに気付くべきであるし、ここで求められるものも物事から遠ざかり、ここに境目を生み出すだけに至るだけだし、決してそこから離れずにうずくまる君の背中が震え、自らの影をまとい、自らの闇と融合するほどにカタルシスへと至らずに、ここで片付けられぬ思いが溜まり込み、互いを奪い合うだけに至るような空疎な戦争へと至るような道理へと導くことだけが世界である、と促すバビロンが示す法などは、今をしばるだけに至るだけだし、ここで神が成立させる生とは、ここに位置づけるだけに至るほどに血が流れ、互いを傷つけるだけに至るし、ここに用いられる動機などは、平衡性を失い、互いを恨むだけに至るようなルサンチマンに変わり、軟弱な者が促した答えこそが、この世界を形成し、強者を追い出し、誰もが同じ位置に立ち、同じ意味を担い、平等であるべきなどと促すほどに、間隔は生まれ、用いられる答えは道理を用い、理屈を捏ね、規律に従わぬ者の一切は排除されるべきであり、疎外されるべきである、と促すのが弱者が促す法であり、強者が促すものは、法すら持たずに、逆らう者すべてを破壊すべく、すべてを破壊しても尚、破壊し足りないと徘徊するだけの至るような行為だけに快楽をおぼえ、むさぼり続ける自らの欲望を旋回する限りに散漫な意識は快楽を求める限りにたぎるエレジーを重ね、自らに悲しみのコードは存在せず、快楽に至る経緯だけが、今を孕む意味であり、今が意味を持たぬからこそ、快楽に至るのであるし、やがてそこで求めるべき快楽すらもなくなり、一切に破綻をもたらし、自らの答えこそが道理である、と促すような君主制が生活を圧迫するような国家を偽装し、国家とは王のために存在するのである、と自らの存在すら認められぬ娼婦がさまよう裏通りでは、路肩で涙流す悲しみの雨から、あいまいなマインドに成立していくしあわせという形に屠られるだけに至るような家畜たちのくたびれた悲しみにうらぶれた休日に啜る汁のノイズがノスタルジックに迫り、ここでせめぎ合うだけに至るような解消から、改ざんされるだけの毎日に掲揚される矜恃などを守るためだけに論難を用い、何かを責め立てるだけに至るような嫉妬から、革命を促すだけの市民的なしみったれから思想に左右されるだけではダメだ、と促すほどに、魯鈍な者に成り下がり、用いられる中庸などは、何の中立にもならず、今を測る世界的な尺度では何も変わらず、用いられるもので弁証法を行っても、ここで解決されるものなどは、この世界と名付けられることの中での解決にしか至らず、その解決とは高次に至らず、高尚にも至らず、自らが示すものだけが世界を世界として形成される以前に、世界を世界として思うより先に現れ、今に背反するものだけが、世界を超越し、今に現れるものを飛び越え続ける先に現れるものが真理とはじめて呼べるものであるし、ここで真理を語ったところで詭弁になるし、担うべき意味も、引き出すものや、引き取るもので汚されているし、ここに現れる原理などは、原典を理解するだけの定理から変化せずに、偏執し、固執した答えを引き出すだけに今に屈辱を溜め込み、怠慢な理論をたずさえ、顕示するものなどは、自らを定立し、訂正するものではなく、自らを改ざんし、自らこそが正解である、と促すほどに、自らとの隔たりは生まれ、心地よい孤独や、ここに寄り添う記憶や、ここに現れあらがう先にあいまいな日々すらも超越し、ここで孤立しても尚、お茶目なままであるし、ここであらがうほどに強靱になる精神は、生死を飛び越え、制止せずに、制されても尚、ここで高次へと至る旅路へと至り、どこにいようが、このままであろうが、ここで超越し続けることに世界や空間や社会や、場所すら不必要であるし、ここに現れるものだけが、受け取り続けるものだけが、物事や物語に交わり、ここに現れるものだけが、この場での苦しみと同化しないですぐさま道化になり、おどけるよりも、この場で滞り、孤立していくからこそ、この命とはひとつであり、ひとりでもこの場で抱擁されるような感覚だけが奏でるものが、ここで絡み合い、語り合うほどに、結末とは美しいものに変わり、不安すらも消え去り、君の因果などは、君を磔にするだけであるし、時間とは、その場に神を生み出し、数学的に閉じ込められ、数字が求める神から逃れ、ここから産まれる己だけが、愛である。