昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

フラクタルな愚行


 互いがぶつかりあって、入り交じる瞬間に、星の終わりのコアや、声色や、ふさぎ込んだイメージに転化していく感性が焦熱し、時代性の陰鬱さに妨げられるよりも、より獰猛に示す値から、死滅していく今をさかのぼるだけの空疎な独り言や、孤独感にさいなまれるほどに、恐怖とは滲み、自らに染みいり、示されるものなどは、終末論を生み出し、自らのペシミズム的な構造に快楽を求め、追従していく意識は、今を重複し、服従することだけが、憂さ晴らしになるのだ、とリベラリストどもがカタルシスをうながす原野に咲き誇るべき黄金の花や、見くびる先々で怯えるだけの日々に証言を残し、限界を作る制度から、カラカラに乾いた異次元で最たる意味を喪失し、足りないものを補うほどに、喪失感を宿すようなロジカルな帰り道には、アイロニーばかりがうるさく脳内を循環し、よろこびにいたらずに、自己中心的な錯綜から、瓦解していく意識的な汚穢に降り注ぐ顕示欲や、現時点に位階を生み出すだけの体たらくな冒険から、死に損ないの明日から、蓄積される緩慢な理想などが、今を騙し続けるだけに堕落し、フラクタルなものほど、同族嫌悪に陥り、自らこそが、正しいものである、と宣言する隙間がかかえる理想が、思想を持ちだし、自らこそが、正義である、と惰性にみちびかれるものに嬉嬉としている様が気色悪く感じ、寛解することもない病を捏造しながら、自分を騙すことで遷延する者が、物事に軋轢を生み出し、絶えず闘争を導くほどに怯える先々で締結していくものが、諦観をうながし、提携することでしか、自らの力を強調できずに、そこで強調されるものも、同調を求め、同情へといたらせるべくうそぶく始末に嗚咽をうながす君の感情論的な束縛から、現実的なだけで、適当に適応することだけが、この世界での役目を果たし、役割に背負わされた義務や、担う意味の中で、正しく思考することだけが、ここでの生き方をたやすくするのだ、という哀れを加速させ、ひた走る先に衝突することすらお構いなしに進むことがエゴイズムように語られるが、それは単なる独善的であり、当然だ、と蹴落とす先におちいる闇しか生まれず、そこで屍骸と化するだけにいたるのに、何をそんなに誇示し、堅持しているのか、と形而上的に示されるものに絶えず証拠を残すことだけが、この存在をぞんざいなものに変えるのであり、そこで不確かな何かを追い求めることだけが、自らを癒やすのだ、と人の皮をかぶった家畜たちは語るが、自らを懈怠に気付かずに、何かを着込んでは、自らこそが主役であるだ、などとうながすような自由などは、自由に利用されるだけであり、デカダンなままに何かを想定し、そこで蓄積される苦悩に支払う義務などを与える間に応じる答えなどは、答えに達する前に、構築され続けたものに加工された義務を愛してるようなふりをして、自らを善人のように仕立て上げ、善意を押しつけ、そこで与えられる疑問にすら答えられずに、適当に与えられた答えに偏り続けることでしか、自らを認識できぬような者に存在は与えられず、そこで軽薄なままに存在の軽さに苦しめられ、そこであらがうこともしないで、支配的な余韻に因果律や、合致するイズムや、そこで意地になり、担うべき意味もそこない続けることが、行動のように騙られ、便利になるほどに利便性だけを求められるなどとうながすようなナチュラリスト的な補完などが示す自然回帰などは、自然の本質すらに気付かずに、自然の驚異を知らずに、自然に帰ることこそが、ここでの疲れを癒やす的なまやかしを用い、そこで適応できずに、そこで苦しむことから逃れるためだけに絶えず何かを騙すことだけが、自分を守ることなど、とうながすような者が語ることには耳も貸さず、ここで重用とされるものなどは、自らの重篤さに気付かずに、自らの行いだけが、何かを正す的なまやかしに騙され、絶えず何かとの闘争を企み、そこで蓄えられたものを収奪するために集団心理を利用し、能動的に生きさせないように、生きたままに遺棄し、善良な市民を演じさせるための法で加工し、罪の意識をたたき込み、互いを監視するわりには、互いに無関心だ、という矛盾を孕みながら、誰かを嫉妬し、何かより勝るために執り行われる義務の中でしか、自らを認識できないような者が左右されるコマーシャル的な普遍性に締結していくだけの意識が生み出した衆愚の中で、自らの役割を見つけるための演出がほどこされ、どのように生きるかを示されないから、と自らの生き方すら見出せぬような教育などは、何のための教育なのか?とほどこされる意味に縫合されたままでは、自らの傷を縫い合わせることすらできずに、誰かに縫われるために今にさまよい、今に見失い、何かに流されているほうが楽だ、とフラクタルなものに陥り、そこで与えられた秩序だけが、自らを守るなど、とうながすことが、正しいことのように扱われ、厚かましいものが慢心を生み出し、閉塞感を打ち破ることもできずに、ここで出来合のものを信じ崇め、そこでたてまつられたものが、神と名付けられ、退廃的な産業に駆逐され、自らの残骸を愛するだけの退廃的なモジュールとして生き、軽薄なものに接続され、観念の安寧すら保てずに、用いられるものに中庸を毒され、どちらかに偏ることだけが、自らの正しさを演出させるのであり、そこで円熟するものだけが、自らの正しさを弁証法的に飛躍させるなどと甘い言葉でいざなうような陰鬱な支配の気配から、ただよう軽薄な理想などは、理論を構築させ、高次へといたらせもせずに、ただ体制が設置するものに物事を決め込まれ、ひとひとりすら守れずに、何かを保つための闘争から、倒錯し続ける先にうながされる平和などは、平和を保つための戦争を利用し、理由を用い、何かを保つために摩耗し続けるような矛盾にすら気付かずに、自らが正しい行いをしているように思わせるだけの詭弁に利用され、領土を奪うために、或いは自らを潤わせるためだ、とうそぶくような輩が用いる金銭的な毒素から、独創性を奪うための憎悪を利用し、争いにこそ、能動的であるべきだ、と語るようなプロパガンダが横行し、今を利用し、理性を奪わせ、欲のために欲を使い切るべきだ、というベクトルに向けるための無神経な排除を続けるような改正を続ける。この世はサディストばかりだ、と閉塞感に汚れ、今の悲しみに擁護されているだけでは、何かの抵抗に巻き込まれ、自らの意志をそこない、誰かの力こそが、自らの力に変わるなどという幻想に飲まれる前に自らを見出し、自らの力だけが、位置的な至福に騙されずに、絶えず己の価値を乗り越える限りに家畜として終わらずに、今の苦しみを超克し続ける。