昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

拘束


 私は、ふつうというものを認識するのが苦手だ。ふつうというものが加工する現実などは、なんのとりえもなく、今に割って入り込み、簡単に背反をつづけ、ふつうであることだけが、あたかも正解のように示す尺度に織り込まれる呪いのようなものが息苦しく感じる。あらゆる感覚は、静謐であるべきであり、あらゆる疎外感を孕んだ現実などのいっさいは、ふつうにより破壊されるようなものであるし、そこに加えられる情報はといえば、今を切り裂き、関係性を用い、何かを攻め入るだけにいたるし、いたらぬ者を排除するための徹底的な普遍性こそが、不潔なものであるし、そこで実体化していく苦痛は、意味を通過できずに、今に取り残され、記憶の中や、記録の中で束縛され、不自由さを嘆くばかりであるし、やがて、うやむやになる現在は、担うべき意味を喪失し、孤独なメモリーの中で孤独感を増していくほどに現れる簡易な恐怖や不安に意思をうばわれ、自ら考えることをやめてしまう。あらゆる苦しみに補完されるだけのジンクスにリンクするだけの歓喜がうるさく、晴天にまじわる暗鬱な証拠を引きずるだけのマニュアルなどが生み出す凶暴性や、理性をそこなうだけの原理的な衝動や、運命的な海岸沿いをあるき、夏を体現するような蝉の生命の終焉にはじまる宇宙から、強要されるだけの協調性などは、今にわけあうべき苦しみなどを謳うだけの宗教的なペシミズムが生み出すアレルギーでかゆみがとまらぬ私は、信じるべき自分すらも持たずに、神を用い、何かを騙すほどに補完されるだけの金銭から、卑賎なものに従属するだけの信仰などは、孤独感を埋めるための運命を引っ掻き、悲観するだけにいたるような猥雑な君たちの理想などに帰巣すべき場所すら持たずに、のうのうとさまよい、居場所を求めずに、とめどなく流れ続ける意識は、限界を持たずに、途端に破裂し、修羅をあゆむ今に飢渇してもなお、そこで潤すことも忘れ、ただひたすらに、この長くも短い今を悟る前に、探してもなお、ここでいなくなってもなお、ここで去りゆくように、ただ、ここに取り残されるほどに、燃えさかる私は、使い切ることすらも求めずに、ただ続く限りを満喫する。すべては、残光をあたえ、あたかも今に継続していくかのように否を伝え、散漫な意識に互換されるだけの今に変化を求めるだけの君たちの女々しい実情が盛るだけの時代性の顛末から、あふれでる悪意のようなものが混沌を呼び覚まし、慢心を呼び起こし、機械的なものに従属し、十全としたものを持たずに、用いられる善意が生み出す平均的な悪意から、あいまいな毎日に攻め入るプロセスなどを排除し、そこで急激にぶつかり合う思いが愛に変わり、そこで愛し合う限りに独善的なものや、懐疑的なものを排除し、正しさすらも用いずに、ただぶつかり合うほどに深まる愛だけが、風化せずに、ここで変化を続け、円環し、質を求めるよりも、ここで自然にうながされ、超越し続けることだけが、言葉を超え、ここで変質しながら、散々な現状を嘆くよりも、鋭く獰猛に行き交う意識が、暴力におかされずに、ここで抑圧されずに、自らであることをよろこび、肩書きに締め付けられるよりも、そこで使命感をかかえ、忙しく尽きるまで動くような日々に卑屈になるよりも、ここで揺動されずに、じっと待ち続ける優美にふれる。負担をかかえさせるだけの人工的な楽園たる国家などは、空疎なものしか運ばないし、そこで用いられる国籍などは、退屈な意味しか運ばず、ここで蓄積される邪推から、イメージにダメージをくわえるための欺瞞が運ばれ続け、罵声を浴びせ、自分こそが、いちばんであり、見下すだけの選民思想的な意識から、世界とは狭められ、誰かが用いる世界の中でしか自らを認識できずに、その場で生まれる苦しみに引きずられるだけの卑近な者が示す尺度や差異に攪拌される意識は、何が正義かすらもわからずに、正義を語り、演技を続け、偽善的に消費されるだけの毎日は、空疎なものを謳いながら、空間的な苦痛をかかえ、混沌としていく意識は、締め付けられ、芝居を続けるほどに、ここでの苦しみは増し、徒労を重ね、老化するだけの日々は、透過するにいたらず、ただ自らの汚濁の中で溺れ続け、つたない意識は、汚いものを排除しようとすればするほどに、自らを動きにくくさせ、何かを憎むことだけが意識的な転化を生み、そこで隷従するだけの意識は、自らを類推するためだけに構造的な解除を謳い、自らの自由にさまたげられ、自由であればあるほど増していく苦しみに耐えかねずに、自らを破壊するように、何かや誰かを破壊するような独裁的な獰猛さをたくわえ、幼児的な自己は、利己的なものをかかげ、加算されるだけの意味に収納されるだけの意識は、自らの苦しみの中でかすむ苦しみを再現するためだけに、何かを犠牲にし、憎むことだけを加速させ、途端にあふれる憎悪だけが、自らの正義を謳う。