昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

愚者のほほえみ


 歩く姿があでやかで、消え去るための瞬間を用意されている現時点に比率すらもなくなり、ヒリヒリした瞬間や、そこで循環されるものや、純化されるものに切れかかった精神が規律を保とうと、何かとの均衡を求めるほどに、何かとの平衡は失われ、存在とは、そこで損なわれるために安易に変換されるための道具として、或いは、偶像を生み出し、今に攪拌され、意識をも奪われるだけの諦観にみちびかれ、臆するほどに、数億の孤独や、憂鬱を運び出すための時代的なものと季節感との摩耗を呼び起こすための時間論から放たれ、宇宙との規律から除外され、果てしないものを運び出すための労働を終え、淘汰される瞬間には、時間すらも無すらも超越し、よちよち歩きで、容易なプロセスをひたすらに走り去った残像も、そこでくすみ、そこで用いられる悲しみとは、あたかも用意されていたものに過ぎず、何かに変えられるために相似したものを次から次に愛することがつぎはぎになり、何かに変えられるために用意された外から用いられる似たようなプロセスを含んだ憤懣から瀰漫する苦しみが慢性的な痛みに適応すべく、すべての苦しみを繰り返しつなぐための契約を継続するためのつながりなどが大切にされるような世界などに補完されるものなどは、満足などを求めるための欲に磔にされ、求めるほどに枯渇するだけにいたせるような世界から背反し、一律の死を運び出すための機械的な回帰を示す今から遠ざかり、呪詛を続ける白い鳥たちや、高明なものを謳うほどに、保持する高尚などは、高尚に至らずに、何かを見下すための知恵として用いられる知恵などは、知とは言えず、そこで引きずるための答えを反復させるための記号として、安易に示されるための道具として、そこで閉め出されるほどに魯鈍になる思いは、扞格を用い、陥落するだけの精神は、飢渇するほどに、求める量ばかりが増え、複製されるだけの真実から、阻害されるだけの人間性が打ち出す制度を模倣するための機械として現れる気配を愛するフリをする。抱擁されるための便利な身体として、快楽で支払うための魅力だけを備えた空虚な身体に補完される空間的な胃腔に葬られるだけの衝動性と同化するほどに、自らの存在とは損なわれ、相手と同化するほどに、同等のものを愛し崇めるべきだ、といざなうような幼少期から抱え込んだ依存性が生み出す兵器的な愛を利用し、領土を奪うための戦争から、鮮明な過去に打ち付けられるトラウマ的な苦しみに組み込まれる偶像を愛してるだけに満たない足りない二人は、対価を求めるために資本主義的な邂逅をめざし、同じ道理が謳う動機などが退屈をほざく間に包容されるべき確かな愛とは快楽を受理するための機能として、あらゆる補正を執り行うために何かを虜にする快楽の墓場で処理されるだけにむしばまれる機械化した身体を本尊として崇める互いを破壊するためのシニシズムから、信用を謳うほどに派生していくリリカルな瞬間がただよう意識を詩に変え、生命に息吹を宿し、躍動していく瞬間は、快楽を機械的に収容するための空虚な身体が存在を確かなものに変え、物質化されるためのためらいから、退廃的な敵意がモジュールに変わり、かいがいしく迫る意識的な枢要さに飼養される精神的な幼稚さに理性は損なわれ、短絡的な破壊を突き進み、詩を密造するために何かを裏切るほどに背面に寄贈されるだけのでたらめな答えなどは、デカダンなものが示した逃避するためのものであるし、あらがうほどに、あてがわれるものに苦しめられるだけに至る意識を遅配させ、満ち足りないから、と次々に求め、悶えるほどに遅疑を生み出し、偽装されるために生み出された神話を信用し、それを今まで引きずったあがないから放たれ、私とは、孤独であろうとするのではなく、孤独をも包括し、そこで確かな対価すらも生まずに、産まれたままに擁護され、些細な出来事などは、瞬間に廃滅し、関係性すらも宿さずに、そこで応じるための規律すらも不必要であり、すべては清潔で、すべては汚されているかのように思わされているだけに満たず、そこで満たないからといって何かは汚いわけでもなく、そこで分け隔てるものを生み出しただけに位置的な空疎さをまき散らすような闇こそを破壊すべく、すべての支配から逃れた私は、高いも低いもなく、ただ宗教的な論争に補完されるための道具で終わらず、そこで仏教的なニヒリズムにおちいるよりも、何も求めぬものにも、求めるという意識がある限りは、何かを求めるだけに終えるのだ、と仏教的な満足を補完するためのため息を補完する先々で対比されるだけの心情などは、今に磔にされるための奸悪を用い、感覚を麻痺させるだけに至らせるような主観などを破壊するためにニヒリズムとは用済みであるし、創造するためだけが、何かを破壊するという理由を知るのであるし、そこで藝術的に至らずに、想像とは騙られるための道具に変わるし、そこで写実的に収まる実践的なものなどは、そこで物に変わるだけで、理由にすら変わらずに、そこで化されるものなどは要らず、そこで要らないものすら至らないから、要らないという思いすら要らない。