昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

私とは誰かである

私に押し入るものとは何か?

私を、締め付けるものが、なんであるかを、考えてみる。考え尽くした後に迫る空虚感はニセモノで、元来、備わるものなどは、問題を後から同じようになぞり、同じような答えで、今と意味を覆い、物事の本質を見えにくくしては、誰かが、何かの邪魔をしようと尽くすのが、資本主義なのだ、と学歴社会は告げるのである。やがて、私も、一貫した社会というものの部品として、麻痺した感情を引きずり、引き渡した感情は、二度と帰ってこないことにも気が付かずに、気後れし、気負い、滅入るばかりで、果たされる意味は、酩酊する現在に卑劣な感覚を与え、ニヒリズムや、ファシズムに陥ることすら気が付かずに、私の同級生たちは、何かや、誰かとの同一化に一生懸命である。あらゆる原理は、やがて、同じ価値に包括し、似たようなものを愛するように仕組まれ、情報や、テレビや、コマーシャルに支配され、芝居じみた毎日に、なあなあなものを運ぶだけに溜まるジレンマを消費する、生産的な観念を迎撃するようなロボットに乗り、自らというルサンチマンの怪物を、自らの手で撃つような感覚に攻め入る終末論的なペシミズムに阻まれる感覚は、私に疎外感を与え、恒久的に世界から乖離し、自ら生み出す理解から、もっとも遠ざかる。私に与えられた価値に支払いを強制する義務的なものに咎められ、記憶に臆するだけの、根元を植え付けるだけを機能させる規律が、私の一切を抑圧する。ただの、個人主義的な応用から、個人的な憂鬱を攪拌し、あたかも、苦しみを消費し、価値に還元され、経済へと働きをかけるものが、活性化するのは、ルサンチマンを生み出すだけに至り、新たな独裁者を、生み出すだけ、だ。その独裁者が、私を騙し、意味を横領し、自らの価値に偏りを与える。価値とは、そのような危うさで、誰かを支配し続けるだけなのだ、と私は眠れぬ夜を飛行し、考えだけに、屈従するのである。

私にもたらされる悲劇

科学は、対価を用い、哲学を外に追いやり、科学の中に収斂される哲学を破棄し、自らの傲慢さを蓄え、意味を破壊し、理由を破棄し、立証されるものをも、憎悪する。権利を主張し、集約される意味へと破棄される一切は、自らの苦しみに気付かずに、社会的な役割を果たすためだけに、保たれる関係を、科学的に汎用するだけに、一律な意味を破壊し、恒常的な苦しみへと変換し、科学的に認識するほどに、私との乖離を早め、理解を得ずに、ただ、立証されるものだけを崇める。自分の考えだけで書くことよりも、すべてを包括し、すべてを、母性だけで包む、純粋な愛だけが、崇められ、仕るものを乗り越え、自らの考えだけを、枢要なものに変えた後には、科学的認識などは、なんの意味もなさないの、だ。

私を陥れひきこもらせたもの

私とは、私を抱えるほどに孤独は増し、今を重くする。有する価値は、不機嫌そうにこちらを見つめる。価値とは、一瞬で、不要なものへと落とし込まれ、無意味なゲームへと転化して行く。現代と呼ばれるものに、神すら居らず、資本主義に作られたスターなどが跋扈し、乱れた性を促し、懶惰な感情を生み出し、快楽ばかりで、情緒すらない。あるのは、短絡的な快楽のコイルを巻くべく、くまなく情報をまさぐり、あらゆるものを呈して、求められる快楽の、傀儡と化して行くことに仮死化する思いに抗い、運命に帰巣し、優雅な思いを加速させるべく、私は、私だけを世界として認識する。古本屋で、五十円で買ったシモーヌ・ヴェイユ一冊で、世界は変わるし、自らを拭うような、彼女の温もりが、私を静謐に誘う安易な支配が、私に独善的なものを植え付け、与えられる影響とは、何かを考える事を辞め、ただ、同じような考えに還元され、兼ね合い見出す意味よりも、金に変わるような価値の家畜として、同じような答えを食し、退行し続け、何も考えないように仕向ける情報を鵜呑みにするような素直さを、強調するべく、協調などを用い、騙すのが、国家の役割なのだ、と宣言するセンテンスから、応用されるものなどは、今に答えを引きつけるだけに溜め込むエゴを用い、失敗したら最後、苛む意識は、己の正しさを喝破せずに、誰かが癇癪を起こし、現在を陥れるべく、用いられた普遍性により、私が、私を傷つけるように仕向けるような仕組みを生み出す定理にもとづく安易な支配の経路こそを、打ち倒すのが、革命の役目である、と教える哲学者の思いを継ぐような意志だけが、私を私として認識させる。私に食い込み、とれなくなった痛みが、断続的に響き、身動きも取られずに、ひきこもる間に執り行われ、織り込まれる事実が、段々と苦しみをなびかせる。

私が思い描く真理

反響する音が、ダイニングテーブルのコーヒーをこぼし、憂鬱な朝の不機嫌さを示し、苛む記憶から引き出す要因などは、落ち込んだものを引き取るだけに至り、今に浸る悲しみへと敷衍していく不安感が、今を捕らえられ、意思を乖離させ、離人症的に傍観する先に見つける自分ももつれている。身に降り注ぐ恐怖は、無感覚の付録のように、宛ても無く、中空をさまよう。移動し続ける低気圧な精神に軽薄な理論を突き刺し、浮かばれぬ思いを昇華させるような実感をまさぐる事すら不潔に思える重々しい日々に利口なものほど、魯鈍に苦しむのか、とこの住まいに染み渡る暗鬱なアンチテーゼに支配されるだけの気配に託すものすら、今の重みに耐えかね、課せられる罪に積み上げられるものを昇華させる唯一の魔法は、哲学である。哲学とは、憂鬱に支配されずに、考える部位を変え、考えとは、還元されぬ唯一の武器である、と宣言する先に生まれるセンテンスは、爽快感を生み、今に迫る憂鬱をもかき消すほどの純粋さを意識に与える。あてがわれた意味などは、所詮、その表面を掬うにも至らず、ただ、その場で現れる文字や言葉は、今を悲観させるだけの過去を正常に保とうと仕組むだけに醜いものを理論化させただけに満たないものを愛したところで、なんの意味を成さないのであり、その場で与えられる問題などは、回答ありきの力動を生み出すほどに、支配を加速させ、何もかもを剥奪し、生きるとは、従う事にあり、運命とは、従える事にあらず、ただ、従順さを保ち、規律と倫理を守るのだ、と妥当な意味は、位置を用い、意味を剥奪し、君を自由にも不自由にもせず、ただ、その場に生まれるものに、何もできずに傍観するだけの人形にするだけに至るような教育が謳う応用などは、横領するだけに至るような軽薄なものを生み出すだけであり、その場に引きこもるほどに、何かに利用され、良いように扱われるだけに批判されるだけに至るのだから、引きこもるよりも、より劇的に生きるべく、哲学的な昇華へと至り、急ぎ足で進む考えを繰り上げ続ける先に、意味は未来をも超え、意志は、止まる事を知らず、その場で生み出す永遠の威力を知り、その場にとどまる事に生まれたフォースの凄さに気付く。私とは、君と重なる何かであるし、すべての抑圧を取り払い、身近に感じるほどに、感作を生み、互いにアレルギーを生み出し、反応する意識との反撥や、背反し続ける先に生み出されるシステムに反し、関する愛から、憎悪を引き出すだけの戦争から、誇大妄想へと至るだけに堅持する意識的な互換性から、悔悟をため込み、イデオロギーを硬化させるだけに浸る逃走から、点滅していく意識は、私から君を引き離し続け、意識的な永遠性へと制圧されるだけに、虐げられ、従える意識は、思春期的な傲岸不遜さや、差額を受け取るだけの麻痺した感情にせめぎ合う情報的な倒錯に、情緒不安定になり、世界性を奪われ、生産性へと変えられるだけのデカダンな憤りから、利己的な殲滅戦を謳うだけの終末論的な最終戦争へと至るだけの原理に偏執していく意識的な崩壊こそが、解放なのだ、と信仰は、今に軋轢を加え、私に押し入り、意味を履き違えさせるべく、支配的に加えられる意識は、他者が咥えたものを口移しでもらい、言葉をもらい受ける儀式的なジレンマが、意識的なものを粉砕し、犠牲心を用い、今を取り込み、利己的な支配へと至るだけの軽薄な理想を掲げ、緩衝する事すらできずに、互いを破壊し尽くす限りに生み出される懸隔から、数多の差異にからまるイデオロギーも、停滞し、敵対心を生み出すだけに、至り、訝るだけに浸る現実から、機械化する感情が放つ冷酷な一言や、他人事なものを強調する境地にせめぎ合う観念が、計測するものを運び出すほどに、魯鈍なものにすり替わる意識は、惨状を生み出すだけに浸るものへと偏り続け、自らに隷属するだけの悲しみに受領する過去からの苦しみの住まいを、歴史的なものに沈積させ、今に浸るだけに立証されるものの誤謬に気付かずに今に悲観を瀰漫させ、偶像崇拝の速度を速めていき、真実とは、愚直なままに、真理をねじ曲げ、錐揉み式に入り込む愚行から、偶然をまとい、意味を愚鈍なものへと変えるだけに至る課せられた意味に屠られるだけの私を傍観する事の屈辱などには耐えかねず、何かに着させられた意味を取り替えるだけの世界を、世界として包括する以前に、私が見出し、生み出すものこそを着替えさせ、意味を取り違えるだけに、背負わされた義務と意味を捨て去り、能動死へと至るような素敵な大義へと互換する真実だけを、枢要な真理として捉え、途絶えずに綴る意識は、伝わるほどに、端的な意味を疎外させ、自らに帰り、戒律を生み出さずに、打算されるだけのシステムの中での死を傍観するだけの他者を介した答えを認識し、苦しみに至るよりも、今によろこぶべく、自らの考えに緩衝し、他者を介し、苦しみを利己的なものへと消費していくだけに、資本主義的な関係へと浸るだけの空疎なものを生み出すだけに浸るような意識的な互換を終えるべく、この行いや命とは、独立したものである限りに、すべてを包括し、自らに昇華させる事に置かれるレイシズムや、ファシズムや、ナルシシズムを超越し、自らの創造性だけで、恋するまでに考え、思い倒錯しても尚、天まで舞い上がるような恋を続けるのであり、そこで消費される感情だけが、善悪を超え、自らにあらがうものに昇華し続ける意志だけが、世界を飛び越え、認識させられてしまった観念を打ち壊し、自ら生み出す概念だけを、本質として捉えるの、だ。

私とは、私に関わるほどに、『抱え込む事の重さに耐えかねずに、今に屈折し、意味を習熟できずに、同じ過ちをくり返す愚鈍さを備える』のだ、と受動するだけの意思は、意識を持たずに、何かに与えられる影響を、そのまま受け取るだけに浸る現実とは、現実感を損ない、そこに、完治しない苦悩を巻き込み、邁進すべき現在に、現時点などを用い、時間に閉じ込め、今に倒錯させる。錯雑とした観念は、イデオロギーを抱え、重ねるものを破壊へと至らせるような構造主義的な解体から、詩的なムードに迫る空間的なロマンスへと観点はねじ曲げられ、物事の健気さを損ない、堅持するだけの意味へと加工される本質は、本質自体が、本質を怪しむ限りに生み出される猜疑心により、何事も信じられずに、今に来す意味へと集約されるアイロニーが、凡庸な価値に用いられる言語に支配され、自らの意志を損なう、というプロセスを進み、浸る意味に、今は、寛容さを損なう。身を滅ぼし、誤りを生むだけの公平さから、整合されぬ意識は、境目を用い、今に収斂されるものへと増幅する怒りを培養させ、自らをルサンチマンの怪物に変えていく。私という軽々しい意識を従え、偏執していくだけに増える虚空に汎用されるだけの意識的な滑落や渇望を踏まえ、不満足を謳うだけに現行に果てる意識を尻目に、発芽する由縁や、悔悟をため込み、生きる事のガイドラインを求めるだけに、低劣な普遍性へと汎用される意識だけが、正義のように扱われ、厚かましく生きる事への有意義さを、遊戯的に解消し、勇躍せずに、センチメンタルに至る者を排除するほどに、私というものは失われ、今にわずらわしく入り交じるだけに兌換される価値へと、カタストロフを迎え、ロストする真理にもとづくエゴへと、迎合されるだけの永劫回帰的な執拗へと浸るだけの現時点に束縛され、不満を溜め込み、体系的な維持を用い、保たれる意味へと破壊されるだけの現状に並行していく意識は、果たされる義務だけを用い、空疎な域で課せられる意味に枷を嵌め、世界性を奪われ、有する価値に鬱積していく今にさかのぼるだけの過去の生産性に追われ、自らの汚穢にあらがわずに、斡旋されるだけに退嬰的なものに陥り、応じるだけの答えに、貶めるだけの王位を求め、原罪に浸るだけの動機に基準を与え、罪と罰に意味を見出す限りに、人間的な愚鈍さに陥るのであり、あらゆる原理は、自らの意志だけが、私を基準として捉え、何かを、罪として認識する事により、その場で不自由さを用い、あらゆる自由を利用するだけの価値へと偏るだけに浸る罪とは、意味を見失い、今に支配されるだけの抵抗性を持たずに、低劣な手入れをくだされ、空虚さに嵌め込むだけの意味に屈折していくだけの領域に明け渡す私とは、他者との交通をくり返し、正面衝突や、ひき逃げをくり返し、利己的な逡巡や、乖離していく意識に改善されない苦悩を恫喝していくだけの悲観する者どもの至福を受け取るだけのマゾヒズムに壊乱していく意識的な終わりから、煩悩を用い、物事を破砕するだけに至るような定理に血合いを施され、自らの空虚な身体を俯瞰で眺めるだけの離人症的な状態が求める対価や、すなどるだけの流儀に派生していく意識的な派閥が生み出す闘争から、拡散していくだけの情報をまとうほどに、人間的な汚穢へと嵌め込まれるだけに体系的なものに没落する普遍性が用いる制度に反し、腐敗するだけの日常に席巻される私とは、私から乖離し、理解を得られずに、恒久的に故郷を失い、呼吸の仕方すら忘れ、わずらわしい芝居をくり返し、孤独を故郷として出迎えず、自らの空疎さを埋めるだけに浸るような日常に迫る世間体や、世界性などに反し、寛容に受け入れる以前に、経過する物事へと搬送されるだけの憎しみが生まれるだけに、運命論的なものへと引き渡される意識は、うらやましそうに、普通である事を傍観するだけに浸る苦悩から、苦痛を引き取るだけに浸る憂鬱に席巻されるよりも、自らの要理に結ばれる純粋な意思を愛に変換し、変化し続ける意味に迫る懸隔を取り除こうともがくよりも、自ら生み出す正解という法こそが、今を突きぬけ、今に捧げる意思などを犠牲的に支払う以前に、サクリファイスとして、離間し続ける自らを捧げる事により、世界に近づこうとすがるよりも、より、ソリッドに向かう姿こそが、生きることを超え、今にとどまるだけに、透過できずに、浸透するだけの意味へと奪われる意識が加速し、意味に老いて枯れるだけに浸るほどの時間的な魯鈍さから逃走し、今に魯鈍な死を追いやるだけの形だけの愛へと憤懣を並べるだけに、バラバラになる意思を虐げるだけの現前に果てるエゴを超えて、内面的な制圧を超えて、束縛されるだけにアクセスされるだけの軽々しい意味をへだてるだけに、惰性な意識へと改ざんされる私などをほぐすような先に生まれる純粋さだけが、今を阻め、狭めるようにも、感じる。

かじかむ身体は、私を自覚する以前に、他者との事故を終え、横溢する悲しみに暮れるだけの空白に憩い続ける瞬間に微かな愛を呈し、露骨な支配を生み出すだけの経路へと批准を来すイメージに肉迫していく苦しみの巣へと帰巣する心理的な閉鎖感を超え、高圧的に迫る軋轢にへだてる意識的な汚穢をぬぐい去るべく、ベクトルは、制限を持たずに、あらゆる原理を超越し、自らの理想を追求するだけに、自らの永遠性へと帰宅する。その先に現れる身近な愛こそが、真理と呼べるほどに、とろけ、熱情し、耽る後に迫るリリカルな衝動だけが、創造的な真理へと導き、突然変異へと至らせ、一斉に進化していく意識は、とどまる事を知らずに、ただ、敷衍し続ける先にぶつかるものをも飲み込み、自らの成長へと変えていく。敷衍するとは、愛を用い、何かを取り入れようとする寛大さだけに、敢行される意志が、死をも乗り越え、今に来す意味を昇華させ続ける。純粋なものが死に絶え、自らが物質化するだけに浸る現実などは、私を浪費するだけに至らせ、何かを着せ替えるだけに至らせるような鈍磨な痛みが、愚鈍な私へと引きずられていく。

可能性を捨て去り、希望を浪費するだけの利己的な世界へと批准を移し替え、自らに課せられるものが覆い被さり、私の身動きを取られなくするだけに至るような欠如を用い、意味の無いものを追いかけ、いつも、無い物ねだりなままで、ないがしろにし、考えを往復させ、自らのみすぼらしさに沈む。