昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

狩るための罪

つぶらな匂い、感触は成否を超え、善悪を超越するような胸の痛み、あるいは精神の歪み、リズミカルな清貧は、成否を価値に変え、自らの貧しさを昇華させるために、自らを賛歌でつつみ、あるいは誰かを道具にするために偶像のしあわせをねつ造し、追いかけるしあわせの亡者として、金の道具になって、道具であるべき金の虜になるから、失うことよりも、小さなしあわせに気づかずに躓くというよりも、際限なく与えられる苦しみの道具として、なにかを憎むための製造機として生きるのかという否定的なものこそ、ルサンチマンの源流になり、すべての卑屈の原因に変わり、批判的なものこそ、ニヒリズムを増加させ、自らがなにも生み出せないから、すべては虚しいと嘆くというよりも、乗り越えることを知らないから、自らが諦め手放していることにすら気付けずにいて、徒らに消費される日々とは、過去に取り憑かれ、絶えず襲いかかる不安の虜になり、恐怖を理解できぬから、恐怖とは絶えず、自らが生み出す苦しみを苦しむことが正義のように語られるから、悪とは作られ、自らの都合のいいように消費される悪が大量に生産され、供儀として捧げられるもっともな悪意は屠られずにいて、あらゆる罪を善用するような者により、悪とは際限なく生み出される。お前に正義はあるものか、私たちにあるのは絶え間ない憎しみと、嫉妬であると宣言された教科書から引き出す卑近な例から、悲観的な観点は強固なものになり、ペシミズムが横行し、世界を終わらすために、自らを捧げることはしないで、他人任せ、自然任せに語られるペシミズムほどみっともないことはなく、あるいはテロリズムをかかげ、リズミカルに消費される自己から逃れるために、解放を目指すのだと叫ばれる解放などは、自分の殻にとじこもり、自らの内部を破壊できないから、外へと破壊衝動は向けられ、絶え間ない憎悪を量産し、それはメディアを介しばら撒かれ、誰もが手軽に憎悪に参加し、誰もが簡単に自らの手を汚さずに破壊し、抹殺する。そこでの罪は問われずに、誰もが参加した悪意は消費的に昇華され、祭りの供儀として、儀式的に消費された悪人は簡単に処理され、簡単に忘れ去られ、たまに思い出されては、崇めるように殺められる。暴力とは快楽的であり続けるために、爽快であり、不愉快でもある。あらゆる行為を効果的に踏みにじるために、善悪を課せられ、簡単に善悪を着替えながら、起源など持たずに、暴力は享楽的に消費されるための暴力として、資本主義的に無意味な消費を続ける機能としてだけそなわる。