昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

雨季と汗

カリフォルニアの強い日差し、デリーでカタルシスを行い、インディアンたちが舞う世界の果てで高揚感を感じて、フランシスのスカートからこぼれる光が神々しく、君が誰かも分からなくなるまで愛していたら、ほんとうに分からなくなってしまったから、さようならを言わなければならなくなって、無くしたものばかりでパンパンのポケットをまさぐるほどに、ほとんどは落ちて無くなってしまうだけで、そこに残るのは、取り残された自分だけで、何をそんなに必要としていたのかも分からなくなってしまった後に拾い集めたもので形成された愛に似たようなものをあたかも愛しているようなフリしているだけってことに気付く。死とは自身の中で折り畳まれ細分化し、隅々まで浸透し、自らの生を往復し、絶対的な死へと変換されてゆく生を傍観しながら、完成された生を謳歌し、すべてを乗り越え凌駕し、確実な死へと潜り込んでゆく。死とは往復されるだけのものであり、死しては、死を認識できず、生きたものが見つける私の死とは、私には認識できぬのに、何を恐れるのか?無くなってしまうことを恐れるならば、無くなったことすら認識できぬ私の死を私が恐れることもなく、ただ過ぎ去り忘れ去られるだけの私の死などを私が恐れる必要もない。妨げられるだけのままならぬ今をかき分け、生きるとは絶え間ない退屈と喪失感をうごめき、埋められない満足と産まれたことにより味わう苦痛と喜びの間を徘徊している合間に絶えず落とし込まれ、陥るための闇を自ら形成しては、あたかも苦しいようなフリをして、形式的なものに支配され、芝居を続けるような生き方を蹴散らすために、私は私自身の死を平気で踏みにじり、私などはすぐさま忘れて、笑って生を捲りまくれ、と告げる。この命は暇つぶしでもなければ、何かに跪くこともなく、うとましいものばかりだし、馬鹿が跳梁跋扈する、と言い放つ我も、馬鹿を否定しているだけでは、馬鹿のままである。