昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

黄泉の散歩道

今ここにある、かけがえのない今ここも、過ぎてしまったら、真実であることすら失われる。今感じる、その美しい瞬間も、今を包み込む確かな愛も、過ぎてしまったら、そこであった感覚や感情とは、確かさを失い、意思に足かせをはめ、身動きを取られなくし、過去から逃れられなくなる。お金で何でもする君たちも、おかげさまで元気そうでなりより、と語るニセモノの平穏無事を謳い、異臭を放つ普遍性も、君の犠牲的な正義が打ち出す罪と罰も、過ぎてしまったら、その正しさすら見失い、自らが生み出した悪に陥る。真実の愛とは程遠いところで、この世界とはなりなっているのだ、と語る私も、真実の愛とはなんであるかを知らない。誰も何も知らないから、真実とは求められるのか、と加算される原理は散々な今を呪うばかりで、今がなんであるかをはっきりと理解していない。彼らや彼女らは、お金以外必要なくて、お金の使い道がないのにもかかわらず、ただ求めることだけに忙しいだけの、空っぽな人形だね、と嘯くネットの中での支配者、継続的な妬みとは痛みを孕むから、なにかを恨むことには注意が必要だ。失った愛とはそっと遠ざかって、また違う誰かをまた愛するんだって、と促す幼稚な私たちは、運命などに惑わされて、同じ苦しみを何度も同じように味わうんだ。私たちは所詮は誰かのために精巧に作られたアバターなのであり、よくできた身体が電脳世界の中で蓄積される喜びや悲しみをメタファーに変えて、恬淡と切り開く先々にはザクザクとした幸福だけが詰まっていて、ここで感じるもののほとんどは、指先から誰かの脳内で還元される快楽が、神経細胞を活性化させるのだ、と惰性な観念が歪ませる現実との差異を埋めるための闘争は、延々と人々を孤立させ、孤独の中で肥大化する被害妄想や、引き合いに出されるものにより、より良いものを線引きし、選別されては、今に手懐けられてゆくだけの生き方に行き先などは不必要であり、どれを取ってみても、誰かの奴隷なのか、と誰かは何かのために働きを加え、ここで溌剌としているようで、誰かのために発散されるための義務感に苛まれて、ただ移行し続ける先々で錯雑としている関連性が意識化するものが可視化するものにより付属するものが、今を疲れさせ、考えを持たせぬように生み出された労働という義務が生み出す巨大な快楽のプロセスには参加せず、自らが正しいと思うことを育てるための教育というものからも放たれ、与えられた概念のほとんどは、正しいもののように語られるばかりで、今に徒らに消費され続けるだけ、だ。