落ちたら最後、誰も知らねえ、何も、間違いではなかったと、愚かな調べを弄る狂信者たち、仲違いした冬が、自らを虐げるほどに、現れる距離を重複し、刹那を辿るナナフシや、記号の上を転がるテントウムシ、無関心を極める近所の人の、無数の過ち、独裁的な主観から羽ばたくカラスの群れ、同じ顔をした私論が、今に迫り、報いを受けるべきだと迫る幼稚な奴らが、生み出す憎しみに、もがき苦しむ君が示す均等なものや、そこかしこで、補完されて行くための、道楽やら、エモーションに焦慮し、幼稚な答えに肉薄しながら、しなびたエンディングに絡みつく蔦や茎、荘厳な冬をシロップ漬けにしている老婆の高尚さや、差額を蝕む子供たちの発がん性、議論の余地もないから、逃げ去る私の隙間の色彩や、最たる意味も隠滅し、モラルなんてものは、はじめから、存在すらしないのだと、引き延ばした文言の上を、正気すらもなくなり、彷徨う最中、また、同じ事に対して、擬態化するしか出来ないような奴らが持ち込む猜疑心なんかに、加担したくもないから、簡単に今を消費し、瀕死になるだけの、泡沫に摩耗し続ける精神の可動域を調べる研究者、妨げられるほどに負担し、悲観するほどに、生まれる汚物や、横暴な答えや、曖昧な対価や、縋るほどに、食い込む縄や、即席のものを崇めたり、誤りを正さずに、ただただ、現れるものを鵜呑みにするほどに、満腹になる毎日にカテゴライズされ、簡単に正気を失い、今にもつれてしまうし、もつれるほどに、すべては、邪魔になってしまうし、奪われて行くだけの毎日に、何の正しさがあるんだと、憤る毎日です。