少し難しくなるけど、堪忍してください。今は、今でしかないのに、今を否定することは、ナンセンスであるし、今を否定して生きるより、今を指折り数えるだけで、意味を失い、今すら見失うだけに置かれた意味に今をもてあそび、浪費するだけに至る観念は、偏り歪むだけに陥るし、今とは、あやふやなものであるし、その場で今は深まり、経巡る意識は、今に陥り、永遠に、そこにとどまるだけなのに、今に置いていかれ、過去を悔むならば、進むべき今が引き伸ばされる限りに、進むべきであるし、今と、何回言ったんやろうか?と疑問に至る隙に、今は、今すら飛び越え、置き去りにされる私は、どこに帰るのか?と問う意味すら、今に置いていかれ、霞む意識は、答えを忘れ、形式的なものにとどまり、今を無駄にする。
すべての始まりは、自分からやし、それより前も無いし、自分が始まったから、それより後が始まった。たま無情なように、あてもなくさまよいささやく影から、自分などというものが、両親を介し、誕生しては、まさぐる始まりは、宇宙と交わり、果てしない永遠を今に重ね、エネルギーをため込み、おぎゃーと泣き散らしたのである。自らの泣き声で作られたんが世界たるハリボテやし、破水して弾けた私は、勝手気ままに、世界を泳ぐべく現れたのであるが、この世界とは、決めつけられた名前に左右されているわけであるし、今書いてる文章ですらも、作られたものであふれている。私は、作られたものが、幼少期から大嫌いであるし、生まれてこのかた、絵や詩や小説や漫画などとたわむれ、創造性だけで生きて来た。学校にも行かずに、創造だけで生きて来た。勉学は、読書でじゅうぶんであるし、早くから社会に出た私は、でたらめにがむしゃらに社会とたわむれ、自らの哲学を創り続けて来た。ニーチェを読む前から、ニーチェを憑依させ、ニーチェの影と化した私のペルソナ的な乖離的なケモノたる分裂との対話から、哲学は、誇張されずに、今に生じる意味を超克するのだ、と少しどころか、だいぶん話が外れていき、どっちらけになるままが、対話たるものである。
考えるんが、絶えず生き方にスパイスを与え、単なる失敗にも、魔法をかける。その素敵な調べさえ理解すれば、確かなもんは、今に世界をひるがえし、世界が打ち出す正解などは、誰かが決めただけに過ぎへんし、そこに与えられたフォースの意味が理解できれば、君は、正解を生み出すものに変わり、正解に流されんように変わるんやで。だから、与えられた答えに苦しむより、与えられた答えを乗り越え、自分から生み出す答えにこそ、真なる意味が備わるんです。