昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

心地よい目覚め


 もっとも暗い場所からあふれ出る詩情が夜を神秘的に包む。新品にされた感情ががらくたになるまで、何かにこき使われるよろこびを教えられてから、この苦悩というものは、能動することを忘れ、受動的に受け入れることだけが、正解のようにうながすような世界などは、世界と名付けられ、したり顔で、必要では無いものは、即刻排除すべきだ、と言い放つ隙間には、色彩などはなく、暗澹とした靄のようなものが、悲劇的に囲い、悲観し続ける先にシステム的な現れに対する敵愾心を相克できずに、自らの苦しみに律動する不快な音に吸い込まれ、自らに罪を課せるような出来合の事柄に至福をおぼえ、そこで同じような衣服を着せられ、同じようにおざなりな者として生きるのだよ、と優しく語りかける悪魔どもの私腹を肥やすために私は生きるのをやめ、制限を持たずに、知を愛し続けるほどに、ほつれ千切れ消えゆく存在の果てしなさや、そこに生まれるはしたないものなどを覆われながら、長らくの孤独に迫るセンチメンタルなどは、その場での悲しみに酔い痴れるだけであり、そこで生み出される詩的なものなどは、ノイローゼが生み出す幻想であり、自らの幻影を追いかけ、理想を生み出し、組み込まれるままに打算するものなどは、何も豊かにせずに、そこで虚偽的に支払われ続けるまやかしの財宝や、リンクする苦悩に統合されるよろこびなどにひたるようなオプティミストどもが画面で暴れ、暴くべき真実も、暴力的な支配から、真理を損ない、そこかしこにあふれる韻律や、林立する者どもがリンチし続けるほどに加速する快楽の傀儡として生きるような輩が、自らの孤独感や疎外感に耐えかねずに、体系に支配され続けることだけが、自らのよろこびを満たすのだ、とうながすような即効性のある解除法などを示唆する暇もなければ、ここで失われるものなどは、失うために存在するのである、とニヒリストどもは語り、解体すべき昨日も、本質的なものをそこない、そこかしこに苦悩を生み出すためだけにためらわずに何かを蹴落とし、おちいるものを高笑いするようなあくどい至福から、輪唱されるものなどは、有史以来、何かから優位であるための法で加工し、自らを屈折させるものへと変化させるような理由や理屈を卑屈にかかえ込み、混濁する意識は、魂胆を忘れ、答えに左右し続ける先々で対立を深め、終わらぬ軋轢が生み出す汚穢を崇めるような者どもが、神をでっち上げ、自らを巣くう苦悩を取り払えずに、むなしい祈りは、今にいびつな警醒をかかげ、むしばむ者へと変化するのであり、理想とは、思想に巣くう癌であり、邂逅すべき自らから離床できずに、焦熱し続ける先に焦慮すべき事実も、示威的にまさぐられ、自堕落なものに変化し、懸隔を生み出し、蹴落とすことだけが、ここでの真偽を見つけるのである、と何かを屠り、葬るだけの理由を述べるような退廃的な者どもが真理を捏造し、愛と平和と自由という幻想を追いかける間に健気に切り取られる間に咲く花の理由も知らずに、気持ちに遅れをきたし続ける間に膨らむ期待感は、汚いものほど、綺麗なものだということを知らずに、答えに合わせるものだけが、物事を正しくし、そこでの均衡を保つのだ、ともたらされるだけの意味に不一致していく意識は、今にしいたげられ、そこでしたがうものだけが順応し、横溢し続ける簡素な出来事に勝敗を生み出すだけの対価から、退嬰的な考えが還元するものだけが、価値を決め込む。あらゆる価値は、不当なものをかかげ、自らを正当化するための戦争にいたらせる。そこで持ち出される権利などは、誰かの理屈が捏ねたまぼろしであるし、そこで反応するほどに、敗退していくように仕向けることが上手な情報から、操作され続ける無知な者どもが平衡を求め、ここで生まれるデカダンスに支配され、芝居を続ける先につたない意識は、誰かの言葉を借りて、快楽を埋めるためだけの欲動から、吝嗇な者どもが謳うミニマリズムや、奴隷と化すことなく闘争するのだ、と自己に帰り着くことを知らずに、闘争に身を置くほどに、自らとの懸隔はひろがり、自らが得た権利を用い、独裁者へと変化し、大きな理想とは、自らの地層を汚し、誰も住めなくしてしまうのであり、そこで葬られるだけにいたるような自己などは、その場ですぐさま捨て去るべきであるし、自らに行き着くことすらできずに、何かを支配し続けるほどに、自らが用いる空しさに打ち勝てずに、何かに屈することだけが、自由にいたるのだ、といような幻想から逃れるべく、自己に帰り着くために、自らとの闘争を深める現在につかまつるもののいっさいは空しいものであり、そこでむしばまれた精神は、徒に何かを消費し、そこで生み出される欲望に支配されることだけが、ここでの答えに欠乏せずに生きるのだ、とうながすようなペシミストから逃れるために続ける「意志」だけが、唯一汚されずに、自らを高次にいたらせる。

懈怠

私は、私を信じている限り、何かに屈することなく、言葉数も少なく、あくせく働くこともなく、なくなく時間をかけることもなく、ゆっくりながら、長らくに腰かけた孤独のなかで真理をまさぐりながら、何かにとまどうこともなく、よく見れば、細部にまでドラマティックなものがそなわり、生命を躍動させ、今に律動するものが、複雑に交わりながら、投げやりになる君の陥落する姿や、姿形すら不潔なものに思える、とうながすような思いが散漫なものをたずさえ、感性を束縛しながら、さながらに苦しみを送り込むようなエモーションや、永遠性を超え、へだてるものすら持たないものとの調和や、そこで長じるものが次元をも破壊し、無限との会話や、制度や組織を超え、閉経した宇宙が、もう一度、何かを産み出そう、ともがく隙間から接近する創造的なものが、今に適任していき、敵対心などを取り払い、ただ、あわさる限りに淡く物事は溶け出し、色もなくなり、たそがれに響く強制的に迫る意味の住まいで引きこもる君の低く歌う歌声が、ここまで届いて、存在の不潔さに苦しむこともなければ、今に苦しむべきだ、などとうながすような権力的な言葉が今に使命感などを謳い、論難を生み出し、困難にひたり、今にいたる病のまやかしに気付かずに、機械的に生きることが、正しいことのように謳われる世界などは、自らの正しさを認識させるための常識などを用い、今に束縛され、自由を用い、誰かを騙すことしかできぬような者が、正しいことのように、今を呪い、今を踏み台にしながら、しなびた思いを引きずる現在に生み出される認識などは、今を徒らに消費しながら、浅ましいものをつなげることが、命のように語られるが、綺麗なものほど、いびつなものであり、今に朽ち果てるからこそ、美しくも見えるのだ、とデカダンな輩が語る間に排除され続ける夢や幻や、保身や敵愾心などが、憎悪を増殖させ、促進され続ける怒りは、誇大妄想を抱えたルサンチマンと化し、解体すべき現在に偏在するものが、今に孤立し、巨大化したルサンチマンは、ペシミズムをかかえ、破壊するための神として、自らを崇め出し、誰かを苦しめるための呪詛を続ける。危険な物語を加速させ、今に性差を用い、たぶらかされた精神は、今の苦しみをごまかすための敵を作り出し、度重なる苦痛に耐えかねずに、自らに向けられた不安や恐怖を共有するためのネットワークを織りなし、簡単に処理され、還元され続ける苦しみに染み入る所以や、悠遠になびき、はぶかれる思いが閉幕し、平静を保つために建前を持ち出し、ごまかし続けるほどに苦しみが寄生し続ける。遷延し続ける意識は、儀式的なものの生贄として、自らが自らを捧げ、そこでの苦しみから逃れるために、必要ではないものを今に追い求め、自ら苦しむための呪いを自らにかける。時間から自ら取り残された思いは、行き着く場所すら求めずに、すべてからかけ離れ、自ら願うことすらせずに、設置される意味を飛び越え、倒錯する瞬間に純化され、循環するために支払われるものなど必要とせずに、センチメンタルなものなどから飛び出し、どこまでも上り詰める意識は、陰鬱なものに安易に支配されずに、考え続ける先に時から逃れるための理論をたずさえる。巻き込まれる思いに混濁し、混乱し続ける先々で始まる思いが刹那にからまり、かかわるほどに重要なものをそこない、時折に跪く過程に締結する思いにすれ違い、つたない思いが本質的なものをそこない、無知なままに引きずる思いに錯綜し、時間が与える老いという罰から逃れ、自らを屠るための時間を打ち砕くために、続くものだけが、時間に打ち負けずに、ひたすら継続するものが悲観せずに、接続される思いを継続させ、ただ、ひたすらに続くものだけが、時間に追われる恐怖から逃れ、自らが生み出すものだけが、運命を飛び越え、時間から乖離し、長い間に引き出される詭弁や欺瞞をさえぎり、自らの意志だけが、唯一の力だ、と知る。

すこし、わたしのはなしをしよう。

わたしの、はなしをしよう。

わからぬ先に苦悩するよりも、今を生きるよりも、自らの意志を保ち、もたらされる苦痛などは、通過するだけであるし、そこで扞格し続けるほどに、ここで反することへの強度が生まれ、自らの意志だけが、唯一の力と呼べる、まる

すこし、わたしのはなしをしよう。

わたしの、はなしをしよう。

焦燥感にもだえる蝉たちの歌声が氾濫し、脳内で受精される創造的なものが、フラクタルなものを形成し、どこかで見たような瞬間を何度も再生させ、そこで用いられる差異性などを飛び越え、フラクタルなものほど、よく見れば、違ったものを見せ、そこで認識するものなどは、どれもちぐはぐで、ぎこちないものである、まる

懈怠

私は、私を信じている限り、何かに屈することなく、言葉数も少なく、あくせく働くこともなく、なくなく時間をかけることもなく、ゆっくりながら、長らくに腰かけた孤独のなかで真理をまさぐりながら、何かにとまどうこともなく、よく見れば、細部にまでドラマティックなものがそなわり、生命を躍動させ、今に律動するものが、複雑に交わりながら、投げやりになる君の陥落する姿や、姿形すら不潔なものに思える、とうながすような思いが散漫なものをたずさえ、感性を束縛しながら、さながらに苦しみを送り込むようなエモーションや、永遠性を超え、へだてるものすら持たないものとの調和や、そこで長じるものが次元をも破壊し、無限との会話や、制度や組織を超え、閉経した宇宙が、もう一度、何かを産み出そう、ともがく隙間から接近する創造的なものが、今に適任していき、敵対心などを取り払い、ただ、あわさる限りに淡く物事は溶け出し、色もなくなり、たそがれに響く強制的に迫る意味の住まいで引きこもる君の低く歌う歌声が、ここまで届いて、存在の不潔さに苦しむこともなければ、今に苦しむべきだ、などとうながすような権力的な言葉が今に使命感などを謳い、論難を生み出し、困難にひたり、今にいたる病のまやかしに気付かずに、機械的に生きることが、正しいことのように謳われる世界などは、自らの正しさを認識させるための常識などを用い、今に束縛され、自由を用い、誰かを騙すことしかできぬような者が、正しいことのように、今を呪い、今を踏み台にしながら、しなびた思いを引きずる現在に生み出される認識などは、今を徒らに消費しながら、浅ましいものをつなげることが、命のように語られるが、綺麗なものほど、いびつなものであり、今に朽ち果てるからこそ、美しくも見えるのだ、とデカダンな輩が語る間に排除され続ける夢や幻や、保身や敵愾心などが、憎悪を増殖させ、促進され続ける怒りは、誇大妄想を抱えたルサンチマンと化し、解体すべき現在に偏在するものが、今に孤立し、巨大化したルサンチマンは、ペシミズムをかかえ、破壊するための神として、自らを崇め出し、誰かを苦しめるための呪詛を続ける。危険な物語を加速させ、今に性差を用い、たぶらかされた精神は、今の苦しみをごまかすための敵を作り出し、度重なる苦痛に耐えかねずに、自らに向けられた不安や恐怖を共有するためのネットワークを織りなし、簡単に処理され、還元され続ける苦しみに染み入る所以や、悠遠になびき、はぶかれる思いが閉幕し、平静を保つために建前を持ち出し、ごまかし続けるほどに苦しみが寄生し続ける。遷延し続ける意識は、儀式的なものの生贄として、自らが自らを捧げ、そこでの苦しみから逃れるために、必要ではないものを今に追い求め、自ら苦しむための呪いを自らにかける。時間から自ら取り残された思いは、行き着く場所すら求めずに、すべてからかけ離れ、自ら願うことすらせずに、設置される意味を飛び越え、倒錯する瞬間に純化され、循環するために支払われるものなど必要とせずに、センチメンタルなものなどから飛び出し、どこまでも上り詰める意識は、陰鬱なものに安易に支配されずに、考え続ける先に時から逃れるための理論をたずさえる。巻き込まれる思いに混濁し、混乱し続ける先々で始まる思いが刹那にからまり、かかわるほどに重要なものをそこない、時折に跪く過程に締結する思いにすれ違い、つたない思いが本質的なものをそこない、無知なままに引きずる思いに錯綜し、時間が与える老いという罰から逃れ、自らを屠るための時間を打ち砕くために、続くものだけが、時間に打ち負けずに、ひたすら継続するものが悲観せずに、接続される思いを継続させ、ただ、ひたすらに続くものだけが、時間に追われる恐怖から逃れ、自らが生み出すものだけが、運命を飛び越え、時間から乖離し、長い間に引き出される詭弁や欺瞞をさえぎり、自らの意志だけが、唯一の力だ、と知る。

初期衝動


 幼い時から、自らの価値は、自らが見出し、何かに教えを乞うよりも、何かに抑圧されてまで、何かと、同調や協調はしないために、学校を放棄し、自らが学びたいものを、自由に学んできた。あらゆる法は、空間に揺らぎを生み出し、自らを不自由にするものであり、自らを囲う国家すら、私を加工し、順応するべきだ、と脅迫する。与えろれた論理は、今にいびつなものを生み出し、何かに偏りを生み出し、意志を踏み台にし、あらゆる抵抗を罪として捉え、今に罰を与える。あてがわれた意味は、今を不自由なものに変え、問題をすり替え、正しいとされるものが、悪を捏造し、悪を利用し、自らの正しさを強調し、その正しさを共有するための、教育を施し、逸脱しないように矯正する。そのような正しさに、正しさはそなわらず、絶えず差異を生み、何かを苦しめるために保たられる理由などは、既得権を守るための道具としての人間や、人間と名付けられた傀儡どもが、自らの生活を保ち、守るために、正義を利用し、悪に転じていく。独我論的な考えを加速させ、束縛から放たれるために、自由を謳わずに、自らが選んだもの以外は、懶惰なものとして捉え、自らが生み出す力だけが、唯一の力だ、と唱える。何かを、与え続ける者は、「悲しい」のである、と伝えるデカダンスの連中が示唆する運命論的な昏睡から、等差を生み出し、淘汰されるまでの歴史に鎮座するだけの王が騙るものに耽るだけの連中が、支配下に置かれ、帝国主義に反しようともくろむほどに、王に跪く結果に導くような連動から、道理とは、不潔なものをたずさえ、自らを支配下に置き、みちびかれるままに消費し続ける精神は、今から逸脱できずに、過去にとどまり、鬱々としたものを連ねながら、被害者面し、短絡的で軽薄なものに陥り、掲揚されるものを崇め、自らも国家の一員として執り行う義務のために、幼稚な抵抗を続け、自らをペシミストに変え、偏執し続ける事が、変化のように騙られる間におちいる闇や、応じるだけの答えに寂寞は生まれずに、詩的な流動性を生み出せずに、惰性に見出すものだけが、本質的なものとして捉える先に存在とはそこなわれ、自らの不確かさに苦しむだけにいたる。徒に消費され続ける精神は、自己から乖離し、理解を得るために虚偽を綴り、自らを正当化するための自堕落さに気付かずに、自らの空腹を癒やすための要理にもとづくエゴだけが、自らを朦朧とさせずに、しかと見つめる先々で対立を続けるよりも、そこから乖離し、理解すら得る必要性もなく、そこで幼稚にみちびかれる先に見くびり続ける意味は疲憊し、自らを傷つけることだけに専念し、捻出され続ける苦しみは、今に鬱陶しくからまり、関わるほどに、わずらわしいものを形成し、証拠も残さずに、自らに入り込み寄生し、今に苦しめるためだけの悲しみを引き出しながら、過去を引き合いにし、今に苦しむだけの定義の中で裁かれるためだけに、自らを罪深い者として制定し、自らの罪の中でしかはたらきを得ずに、ただむしばまれる自らを傍観し続ける自己との対立を続けずに、ただ外から与えられる影響に責任をなすり付け、確かな自己にすら行き着かずに、誰かに与えられたアイデンティティーだけが、自らを成功に導くなどとうながすような金言に左右され、自らの意志を損ない、誰かがうながすものだけが、真実へと導くような間に生まれる支配的な論理から、論証されても尚、それに反し、抵抗を続ける者どものあくどい至福から、そこかしこで生まれる退屈な法から、理想は、供給され続けているようなふりをして、おざなりなもので今を支配し、訂正されずに、ただ、そこで正しいと位置づけられるものにこうべを垂れ、たてつくことも忘れ、何かの主義を背負いながら、いい気なっているだけでは、何の変化も与えられずに、ただ邪推し続ける先に破壊を生み出すだけの定理にもとづくものに迎合し、簡単に処理された昨日をうらやましげに見つめ、もう明日など来ないでくれ、となげくよりも、もっと獰猛に自らを見つめ直すべきであり、そこで固執し続けても、そこで消費され続けることは変わらずに、ここで支配され続けるほどに、贋物の快楽は加速し、何かの傀儡として死するまで、自らを消費し続けることに置いて行かれる心身は、自らが存在していることすら感じられずに、何かの道具として嬲られ、死する一歩手前で放置され、そこで補完され続ける快楽のためだけに生きる亡霊やゾンビとして生きることだけが、ここでの生活を保ち、守るための摩耗であるのだ、などとうながすような定理などは、弁証法にいたらずに、ただ継続することだけが、今の豊かさを保つのである、とうながすようなものこそ、現実を見つめておらずに、その場で継続されるものだけが、しあわせを約束する、と騙るような者に耳を貸さずに、自らに帰り着き、そこで表されるものなどは、そこでの支配を続けるための欺瞞を続け、そこで耐え続けるだけの意思は、死ぬよりも悲惨な生を続けるほどに、自らの存在などは感じられずに、存在の軽さに取り残される精神は、そこで用いられる不確かな満足を追い求めるほどに、自由から遠ざかり、求めるほどに、利用される結末にひたるだけのペシミストで終える。