昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

語りかける誰か


 静かに物事は成されなければならぬし、そこかしこに現れる愚行に対処している暇もなければ、もてあそばれるだけの身体や、乖離する精神や、森羅万象になびく憂鬱な試練や、ジレンマに対比する今に悲観するだけのエンディングや、陰惨な形に悶えるだけの時折に嬲られ、時代的な猶予に阻まれ、季節を封緘し、誰でもない何かに送りつける間に卑劣な闘争は、倒錯を生み、錯雑とした観念に慢心を生み出し、奪われるだけの感性や、完全性を用い、暗鬱な衝動や、確かな理想を生み出せずに、何かを踏み台にし、何かを出し抜く間にアイロニカルなものや、いびつな精神や、軽薄な理論に迫害され、運命を否定し、悲観するだけに至らせるような批難から、自らを過信し、進化を疑うだけに至らせるような散漫な悲劇から、攪拌される先々に用いられる言葉も、誰かに利用されるようなうわべだけの言葉に間違いをなびかせる。語りかける誰かとは、誰か?などと運命のうねりの飲まれ、リアリティーを損ない、そこかしこで現実が乖離する永久に嬲られ、自らの内外で果てるだけのジレンマや、人工的なジンクスにリンクする言葉も過ちや、物事がリズミカルに進み、リリカルな思いだけが、代償を求めずに、緩衝する先々で、愛がなんたるか?などと聞いても、何の答えも生み出される訳も無いし、理由も分からずに、卑屈になるのは違うから、勝手気ままに踊るだけでは、踊っている意味すら理解できずに、踊らされているだけで終わるし、物事の汚穢や、応じるだけの声色に迫るセンチメンタルな歪みから、悲観するだけの空疎な者が示す尺度や、証言を打ち砕くような括りに閉じこもらずに、この、狭い世界とは、考えてみれば、狭いと認識させるような答えにもとづく距離感であるし、そこに用いられる距離などは、何かを狭いと認識させようと強要し、それに呼応するように、と迫るだけの専横的な者が示す尺度であるし、そこに理解を用い、何かを介する間に、間隔を生み出し、その間隔に埋めるだけの意識だけが、正しいもののように扱われ、そこに厚かましく迫る慢心や、うわべだけの安心を謳い、今に牙をむくために、報うよに屠るだけの連中が示すアナクロニズムや、事務的なものや、義務的なものを報じ、心ない何かでしか判断を誘えずに、誘われるだけの者は、今に罠に嵌まるだけであるし、自らあえて敵地に放られ、方法論すら失い、保護されることを待つだけで、何事かも判断できずに、自らの死にあらがえずに、生にぶつかるから、今に苦しみは倍増するのであるし、そこにある生などは、有するものでもなければ、何かに守られるために存在しているかのように示すほどに、強制力は加速し、今に加工される精神は、軽薄な理論を積み立て、今に罪を生み出すだけの法に偏り、理解を求めるほどに、韜晦し、回答を持たずに、自由に動くことだけが、世界を、世界として屠ることも、創ることも可能な神の沈黙を打ち破れる者である。神をも超えることだけが、答えを用いることを否定し、未完成のしあわせなどは、謳われる幸福に捏造されたしあわせに過ぎぬし、そこに用いられる幸福などは、克服できない不幸が、不具合を生み出し、そこかしこで幸福を追い求めるだけのハイエナを生み出すだけに満たず、導かれる者は、狩られる運命に至るし、狩る側に居たとしても、いつかは、狩られる運命に至る。狩られる者は、やがて、自らを悲観することでしか、物事を測ることができずに、そこに測るだけの価値を生み出すほどに、間隔は生まれ、そこに嵌め込まれる快楽だけが、今を有意義に変化させることだ、と促すような正論などは、いつわりの言葉で攪拌させ、問題を拗れさせるだけに至るような意味を誇示するだけの独占的な考えが還元するような価値を守り、保つための独善的な考えであるし、そこに与えられる権力に荷担するだけでは、構築されるものの一部として生きることだけが、あたかも正しいことのように促されるままに生きるだけの家畜か、傀儡としてしか動作できずに、等差から抜け出せずに、なおざりに執り行うことから、問題に統合されることだけが、卑しい自分を昇華させ、与えられる快楽の道具として、虚空に支配され、孤高に至るのだ、と勘違いを生むような高尚や、拗れる先に暗鬱な真理を巻き込み、人為的な苦しみが生み出す意味に密接な関わりへと浸るような共依存的なものから、悶絶する先に空疎な芝居を続け、食い尽くされる生は、静謐な思いを欠き、機械的な情緒で判断し、与えられる優しさに酔いしれ、酔い続けるほどに、正しく物事を判断することもできずに、自らに愚かさの枷を嵌め、世界性を損なわせ、アクセスしている外からの影響を受けやすい人間として生きることが、人間であるのだ、と低劣な判断だけが、正しいことのように仕向けられる間に用いられる意味だけに利用される。