自ら踊るよろこび
恋とは絶望から始まる。交わる先に現れる思いも、恋い焦がれ、あこがれるほどに、自らとはおいてけぼりをくらい、今に与えられる影響とは、自分の自信のなさを伝えるだけに行き違う思いとの絶望感である。安易に即される絶望にこそ、何かを愛するという意味を知るような原理を産出し、今に現れるものを素敵に彩ることだけが、生きていると定義づけるのだ、という宣伝的で横暴な規律を用い、判断を誤るようなものも愛であるし、そこに神を用い、悶える意識に願掛けを施し、今に現れるものに修繕される先々で戒律を生み出し、即座に与えられる罪の意識が欺瞞を生み出し、踏み出す意識は収斂され続け、現れる意味を悟る者が誤りを正すように強制するほどに同化するだけの同調し、同情することだけが、世界を掴むのだ、と意味を履き違え、今に課せられる罪や、緩衝する先々で対立を含ませ、現前をたどるモノトーンの夢と踊る先で懐疑的なものが促すニヒリズムや聡明なものを汚すだけの言葉に締め付けられ、記憶と死にまつわるだけの価値に引き出されるだけの迎合された意味を引き継ぐ者が、批判的に攻め入り、退廃的なものを吐き出し、果敢に挑むことも忘れ、ただ嘆願するだけの日々に愛は散り行き、生活の道具として、偶像を愛することでしか、毎日の疲れを癒やせぬような論理的な齟齬から、ここでフォーマットされ、さまようだけの道理に論理的な解決を求めても、求めるほどに逃げるのが、その場での価値であり、そこで憎むほどに遠のくのがしあわせと名付けられた宗教的な幸福であるし、ここで克服されるべき幸福を乗り越えてこそ、ここに現れる絶望も超越できるのであるし、そこで理解を得られなくとも、そこに与えられるものだけが、先々に伝わり、確かなものに変えるのであるし、ここに宿るものだけが、欲深いものを蹴落とし、今に認識し続けることが亡霊のようにさまようようなものと融合し、死をも乗り越え、今に現れる苦しみなどは一瞬であるし、そこで屈従し、屈辱に震えるほどに敷衍する苦しみばかりが、空疎な日々を嬉嬉としたものに変えるべく、危機感を用い、恐怖を煽るような扇動から、斡旋されるほどにサクセスは遠のくし、ここに現れる物語も他者の言葉を借りて、ガス抜きを繰り返し、狂いそうな日々に遭難し、相互理解を得られずに、交互し続ける意識は、自らの空しさに身ごもる自意識ばかりが成長を遂げ、そこで語れるだけの社会の一員として、因果な結末を生きることすら嬉嬉として立ち向かわなければ、そこで屈折し、批判者として悲観するだけの日常を生きるほどに汚されるだけに至るのだ、と解毒剤を用い、懇意に迫るだけの安易な結合から、処される意味などは、今に配分されるだけの苦しみを漁るだけの貪婪な者として従える意識の奴隷として生きることだけがしあわせと名付けられたものをむさぼる忘我の獣として、或いは、鈍麻な感情を引きずり、何かに影響を与えられなければ、感じられぬのが、この人間という入れ物であるし、ここで隷属するほどに安心するのが本能的なものが脳内で働き、何かに狙われていた過去からの影響を施す恐怖から逃げ出せるわけであるし、今に虐げられているからといって何かのしあわせに足かせを嵌めることだけが正しいことではなく、正しいからといって強制するのでは、権力者と何ら変わらず、ここに用いられる苦しみを理解して始めて、何かと交わることもできるが史跡すらも踏みにじり、自ら生み出すものだけが本質を作るのであろうし、ここに現れる死を乗り越える純粋な意志だけが、愛するということを始めて始めてみようとする決意を含み、多様化され、対等さを謳い、用いられる平等が生み出す等位から差別化が進み、苦しみにも多様性が生まれ、対等を用い、何かを平等へと戻そうとする企みにより、枠組みが生まれ、そこではみ出すものを疎外させるような結末に至るような自然の摂理たる弱肉強食を用い、狂信的に迫る意味から、正義は偽装され、今にあされるだけの真実が君を苛むであろうし、ここで促されるものを老子的に流動できずに、ここで緩慢に作用するものに感化され、流動することだけが正しいとされる流行的な捕食から、諦観を生み出すだけのペシミズムが生み出す悲劇の子として、あらゆる創造性を排除し、虐げられる忘我の身体に結末を塗りたくり、安易に塗り替え、書き換えられるだけのエゴイズムを加速させた快楽だけの傀儡として、勇ましい結末を迎えるよりも、ここで闘わずに、死ぬことを選ぶことも然りと言い放つほうが嘘っぽいし、ここに奉納されるものなどは、効能を誤り、何かを痛めつけるだけに利用する麻酔薬であるし、或いは麻痺させるための毒にしかならぬような言葉が誤りを引きずるわけだしで、忙しく動き回る苦悩は、今に嵌まる罠の意味を知っておきながら、知ったままに従う快楽に震えるような超絶なマゾヒストばかりが徘徊する原野に原案とされるものなどなく、そこに物語るものなどは、どれだけ裕福で、そこで幾らもらうかにより、ここに関わる意味は違っていくことだけが、文明が生み出した力であるし、ここで唯一とされている以上のものを知りたく私は学問に溶け込み隠遁していくだけに陰らぬ精神は燃えたぎり、ここに永続的に汎用されるように、どこにも影も形も残さずにすぐさま消え去り隠れるほどに自らが鋭く光り、そこで屈折した鈍色の結末を照らす一筋の光りであるのだ、とうそぶきながらも結末に輝く一瞬の光りとは美しいものであることを知るような尊ぶ意識が統合されずに、自由に分離し、そこに体系を生まずに、産まれたままをよろこぶような素直さだけが、今を切り開くような強度を高めることだけが、生きていることなどを求めるよりも、自由を求め、自由に戸惑うよりも、絶望感にひれ伏すよりも、今に苦しむよりも、ここによりよいものを生み出そうともがくよりも、力を抜いてありのままであるのも違うし、ここで高まる限りにどんなものであろうと受け入れるようが受け入れまいが、自ら生み出すものだけが真実だ、と言えるまで永遠に続けることだけが、ここでの基礎になる。