昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

矛盾との戦い


 壁をとりはらい、自然に意識する以前に、ここで生まれるものの全容を測ることよりも、ここによりかかり、制する余韻や、因果律に反し、時間からかけはなれ、ここで思い違いを生むものや、運命論に支配され、散漫な意識を時間に追わせるだけにいたるような終幕から放たれる偽善的な要因や、インタラクティブなものほど、互いを信じてはおらず、そこであたえられる影響だけに左右され、すぐさまゆがんでしまうものである、と洗練される先々にセンテンスは死に絶え、誰もが情報の中で退歩し、時代錯誤におちいるだけだし、惰性に支配を繰り返すだけの王朝が示す明晰な判断すらもそこなわれた懐かしみだけが、代償を求め、今にさまよい、欺瞞を続ける辺りから、追憶とはうばわれた価値により、違った理想をあたえられたものを思い返すように海馬をカットされ、些細な原理にもとづくエゴを捨て去らせるべく、うばい続ける価値から、ここでもちいられる過去などは、枯渇するための理由をためらわずに生み続け、うばわれる原理や、ふかまる意味に恐々としていくジレンマが指定する義務へといじらしくとまどい続けるだけの君の無知にも悲劇は現れ、今に拘泥するだけにいたるだろうし、ここで浪費し、老化することを傍観し続け、つたない意識は機械的な末端に生まれる排除法や、破壊的な現場に理想論的な敵愾心を生み出し、破壊することだけが、この世の軋轢を矯正し、救世主を生み出すのだ、と井蛙な者が示す識見などは、正しく物事を見られずに、正しいものとして物事を見ている限りに、その正しさとは、正しいとされるほどにゆがんだものを今に生み出すことに気付かずに、自ら定める位置や、今に統合され、今に位置的な苦しみを複製するだけの真理に釈然としない精神は、主体性をそこない、そこで価値の家畜として、あるいは悲劇のヒロインとした、または、闇夜でもっとも暗い者として正否すらも持たずに、善悪に解消され、回収されるだけの最後を待ちわびるような悲しみに暮れる間にもっともな悲劇の者として、物事に軋轢を生み出す悪意の根源として、悪に焼き尽くされ、その場を燃え尽くすことだけに専念するような捻転した精神に喜劇的な笑いを持たずに、貧賤な者として、あらゆるものを憎悪することに想定されるものや、そこで装填されるものを撃ち続けるような憎しみの子として、恒久的に孤立し、ここで拘泥し続ける限りに陰る本質や、そこでそこなわれるだけの価値におびえるだけの一生から、いっさいの苦しみとは、今に永久を用い、ここでコアをなくし、長らくにひしめく利用された身体を交換するほどに、おぼえもないものを引き出すだけの卑近な過去から、交換され続け、硬化するだけのこころを暴走させないように抑圧するような国家的な偽装から、共産主義的な失敗や過ちとは、人間的な成長がなく、ただなあなあにあたえられた平等に尊さを持たずに、自らを問い質すことを知らぬから、そこで許すという怠慢を用い、何かを対価にしか人間とは人間として動けないという機械論的なさまたげに打ち勝てずに、浸透した主義は、理想を用い、希望を失わせるための革命にいたったことで、前よりも自らを苦しめるという矛盾を孕ませ、そこで奪った主権を守るために反するものを処刑し、そこでいっさい欺瞞を取り払うべく、関係のないものまで殺めるような恐怖政治に利用された者どもの悲しみを謳い上げる価値が今も揚揚ともよおす隙間に襲いかかる昼間の睡魔のような悪魔が迫り、生命を危機にさらすような散漫な儀式の彼方で、あいまいな理想を捏ね上げるほどに革命とは国家を越えられずに、自らを越えぬ限りにこしらえられるものに支配され、自らの意志を喪失し、互いをゆがめるためにゆだねる理想は、ここで了承を得る以前に、ここで強要されるものや、そこで驕傲な態度で示す差異にあらがえずに、今に見出すべき理想も、理性をそこない、本能を用い、何かを特権的に殺め、現れる理想に打ち勝てぬ限りにあてがわれるものに気配を奪われ、ここでの理想とは、何かを勇躍させることもなく、現れる不満が瀰漫する前に、強制力を持ち出し、強制的に従事させるための恐怖を巻き込み、現れる不純な理想に帰巣するだけの権力を保つための剣劇と銃撃迎撃の演技を続け、あたかも正義をかかげた行為とは、悪魔的なものであり続けるし、そこで続けられるものなどは、何かに隷属し、そこで展開されるものなどは、何かを奪うための敷衍を続け、つたないものをかかげ、それを成長と告げるような告白などは、ここでの正しさを見出すこともできずに、延々と続いたきた理想に寄りかかりすがるものを正しいものとして認識すべきだ、という洗脳まがいの理想が倦怠感をいざない、何かを考え、何かを思い、何かをかかげることとは間違ったものであるという普遍性が生み出した不潔な心情とは、誰がなんのために生み出したものなのかを考えるべきであり、善悪の是非を問わずに、ここで正しいものと悪いもので分け隔て、惰性な判断で、性善説性悪説を唱える以前に、ここに現れる善悪などは、懸隔もなく、同じようなものを、同じようにかかげているだけに満たず、どちらも正しければ、正しくもないのであり、そこで決め込むことこそ、正しいとは言えず、そこで正しいものとして認識させるような強制的なものを保持することが正しいとされ、そこで認識するものを怪しまぬ限り、自らの考えなどはないの、だ。