昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

答え


 担うべき愛も確かさの足枷を嵌められ、はびこる悪意がそこかしこで充填され、罪深い者どものつぐないのメロディーにさいなまれていく記憶に循環していく苦しみなどが、今を純化させるのだ、と騙るような宗教的な汚染から逃れ、がんじがらめになる意識に遡及されるような美徳などは、自らの正当性を謳うための短絡的な偶像をかかげ、自らが崇める理想だけが、バビロンから離れ、阻めるだけの悪意との対立に打ち克つのだ、と惰性にみちびかれるものが伝うロジックから離れられずに、乱立する意味の中で短絡的な理想をかかげ、簡単な理想に操作されることだけが、ここでのしあわせを保つのです、と騙るようなものに裁かれることだけが、ここでの苦しみを消費しては、貧寒な理想に飛翔し続ける先々で軋轢を重ね、重複する意識が服従に至るまでの形跡を踏み躙るようなインタラクティブな者どもの理想が恒久的な苦しみにより、呼吸すらするんじゃない、とうながすような同等や平等の幻想が、暴動へと至らせるのだ、と打算的な者どもの祝福こそが、世界を正解にみちびくのだ、と騙るような惰性な支配へと至らせるような市街戦の最中に、微細にわたって相似するだけの物質的な優雅さに蓋然的な履歴をがれきに変えるための軋轢から、倒錯していく真実もウイルスに変わり、うろたえるだけの人々がさまよう原理的な墓地でゲリラ戦を重ね、厳正な真理にもとづくエゴだけが迎合されるべきだ、と性善説的な輩が、恒常的に相似する者だけが真実を語るのだ、と渇する間に派生していく意識的な清め祓うような儀式から、犠牲的な者を何度も反復させ、配される愛に敗残し、残骸と化する悲しみの最中に中立を保つべきだ、と恒久的な苦しみが下す空疎な問答から、感染していく物事へと統合される意思的な汚穢が空疎な自分を引き裂く間に、活性化していく愛が大発生し、代用品どもがうながす介する間に理解を深め、そこでの演技を確かなものに変え、嘘を真実に変えるための軌跡を確かに踏みしめるのだ、と兌換されるための価値が謳う公正性などは、どれもそもそもの正しさを廃棄し、廃絶されるための規律の中で対立を続け、大義を持たずに、大利を求め、ただ現れるものとの対峙を続け、懐疑的な思いが改善されずに連動するほどに改廃していくための事実を想定し、そこに現れる偽善的に示されるものに閉め出された思いは、やがて憎悪に変わり、増幅する怒りが幸福を求めるほどに、とめどない苦しみを往復し、その苦しみを克服できずに、何かを引き裂くためだけにためらわずに暴力的に語られる理想などは、ただ短絡的な破壊をフラクタルに変えるための正しさを永続させ、そこで語られる答えだけが、大義を確かなものに変えるのだ、と語るような者こそ悪の根源であり、その区域を牛耳るた扇動を続け、面倒なことを弱者に押しつける。絶えず用いる者が持たぬ者を操作し、もっと持つための闘争から、統合されるだけの正しさに供給される罪の意識が儀式的な神をモチーフに、複製される真実が次々と自己の内部で政府を生み、踏み台にされる思いがルサンチマンをかかえ、慢性的な繰り返しに凍てつく思いが遠のく感情を浄化させるためにガラクタばかりを集め、自らの空虚さを埋めるための屈折した愛に服従していく。凡庸な価値を片付け、自らの意志の正当化を求めるよりも、自らの正しさを克服し、複製される罪のつぐないなどを求めるために、何かと同化し、そこで正しさを謳うことの上っ面だけを信仰し、そこでの正しさを演じ、そこでたじろぐだけの愚かさから逃れ、物事とはどれも逆さまであるし、あらゆることに反逆していくことだけが命の正当性を確かなものに変換するのであり、物質的なロジックなどは、そこでの服従を求めるだけで、どれも退屈な欺瞞をしのばせ、不満足をかかえ、憤懣をぶちまけ、自らの正当性を迎合させるために屈従を願うような者どもが語るような正解などが、世界を破壊し尽くしても尚、破壊し足りない、と大利を願うほどにねじ込まれる意味を克服できずに、複製される苦しみを何度も自分と同じように味わうべきだ、と語るようなペシミズムが補完するような終末論的な終わりこそ克服できない汚穢に過ぎず、そこですぐつぐないを求めるような幼児性との対立を終えないから、自らをも手に負えないものに変え、物質的な優雅さよりも、創造的な快楽を敷衍させるべきだ、と独裁的な芸術性を育て、惰性な者が競り合うような世界の終わりを騙るよりも、改善されないままに、ここの意志が何かと同化するよりも、このままを謳い、何かに反発するよりも、自らに背徳をかかげ、そこに現れるものすべてに反することだけが唯一の答えである。