昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

別れ


 純粋なものに対しては、純粋であるべきだし、そこで抜け駆けするものや、健気なものを汚すだけの者が閉め出され、惰性にうながされるままのものを、あたかも愛しているかのように示すような差異から、散漫な意識に原形もとどめずに、そこから排除される悲しみに澱むだけの現在に代償などを謳い、さまたげを生み出すだけの現在に迫るセンチメンタルな倦怠感や、健忘し続ける先々で切り取られる運命が測り続ける意思的なものの哀れなどを加速させるだけの命題などに塞ぎ込みながら、記憶が生み出す孤独な現象に妨げられる夢の奥底で後れを取る意識から放たれるべく、ここでの思いなどは、ここで横溢するものに秩序を生み出し、自由を奪うだけにいたるし、まがい物を生み出すだけのあいまいな日々に維持されるほどに補填されるものなどに邪魔される意識は、今にしいたげられ、健全なものを謳うほどに、ここで破壊されるだけの日々は、今に欠乏していき、精神的な排斥を続け、つたない意識に飲み込まれるだけに葬られる意識的な終わりから、ここで汚穢を生み出すだけの現実的な廃墟に登り、能動的な意思を保てずに、用いられるものに騙され続けることに俗っぽくいたるだけの人間性が麻痺しながら、ここでしなびていき、うらぶれては、何かを忘れるための斡旋から、ここで圧力を与えられ、抑圧され続ける精神は、権限を謳い、何かを奪うだけの還元から、観念に退くあいまいな意味との緩慢な作用に苦しむ君との距離から、何かに興じるほどに、事実との距離に諦観していく君の浪費していく意識的な指定から、裁かれるだけの日々に形容を求めるほどに、何かに嵌まり込むだけの意識的な依存から、損得をうながすだけの日々に隔てられ、思い返すほどに、自らの惨めさを加工するだけにいたるような面影などにセンチメンタルになるよりも、担う夜か逸脱し、生み出される退屈などは、何かを退屈と思うほどに、補足される苦しみの捕囚として生きることしかできずに、何かに直にふれることもできずに、出来合のものを信仰し、矛盾した神を崇め、自らを正そうと仕組む間に取り組まれたものに淘汰された意識は、何かを愛することも知らずに、何か理不尽なものにさまたげられ、今にも崇めるだけの意識は、関わるものすべてを神からの認識を重ね、自らの意思を損ないながら、殺伐として意識は、裁かれるためだけに、ためらわずに自らを生贄として捧げ、散漫な意識に傲慢なものがかかげる理想や、そこで追い込まれるだけの日々に惰性なものを信心しろ、とせがむだけの意識は、今をはばみ、何かを破壊するための呪詛が定理をまやかしに変え、今に記号化される幼稚な仕組みから、そこで企み続けるものが狭める意識は、自らを騙すためだけに、何かを信仰し、何かを崇めることでしか、自らを成立できないような弱い人間を捕まえ、自らの矛盾を正すように、と従え、虐げる間に仰仰しく迫る意識に問答を授け、そこで正解へと導くような世界などは、自らの世界から排除され、他者の世界へと吸収され、吸引され続ける精神は、自らの純粋なものを放棄し、そこであてがわれるものこそが、自らの正しさへと引っ張るものであり、そこで張り合うものへと、自らを大衆的なものや、普遍的なものに転じさせ、何かを演じることでしか、自らを正しいもののように扱えぬような者が崇める神だけが、あたかも正否を伝え、善悪を用いながら、何かを求めることは罪であり、そこでお布施し続けることだけが、しあわせに近付くのだ、とうながすほどに、自らに補足される苦しみを昇華しきれずに、その苦しみをとりはらうべく、もっとお布施を重ねるほどに、自らの苦しさは、軽くなったような気になって居るだけでは、自らを越えられずに、答え合わせをするほどに、答えとはほど遠く、そこで補完されるだけのものがいい気になり、自らが、自らを拘束し、そこで怯える幼稚な取り組みから、統合され続ける意識的な終わりに示され、そこから閉め出される意識が退嬰的なものや、体系的なものに退きながら、因果にうながすカタルシスや、そこで相互する意識的な割愛や、渇望し続ける欲に寄り添うだけの君のエゴなどは、エゴにいたらずに、ただ欲そのものに純粋なわけであり、そこで求めるだけの欲などは、欲にすらいたらずに、自らの欲を自らが食い散らかすだけの貪婪なものに気付かずに、もたらされる意思と、持たされる意識が及ぼす穢れのようなものに気付かずに、ただひたすら幼稚にむさぼり食うのが、「この人間としての役割であり、そこで退廃的なものに変わるだけの意志などは、互いをとがめる理想を生み出し、何かに偏り、自らこそが正しい、と示すほどに、自らに閉め出され、そこで惰性に生み出されるものが、些細な苦しみを評価し、表現をそこないながら、そこかしこに苦しみを媒介させ、そこで反響し続けるものが、自らを奪うだけにいたるような利己的なものへと変わり、途端に苦しみを背負うための義務や、そこで謳歌すべきよろこびにいたらずに、自らを徒に消費することだけに専念するような日々から抜け出すために、自らを聳立させ、そこで勝敗すらもなく、善悪すらもないからこそ、自らの正しさもなく、そこで求める正しさなどは、正しくあろうとするほどに、ゆがむだけにいたるの、だ」そこで渇望していく不純な意識も、そこで拘束されない限りに、何かが示す不純なものなどは、そこに用いられる法により、動きをとがめられ、自らの理由にいたらずに、何かが示すものに閉め出され、自らの正しさは見られずに、何かに見られているという意識が生まれ、今を不自由にさせる。