昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

実践される愛


 感覚は架空のものを持ち込まれながら、何かを麻痺させ、魯鈍なものに変化させるだけの日常にちりばめられる普遍性な毒素を連動させ、些細な出来事の末端にながれる悪意のようなものが加速しながら、ここで並べられるものなどは、懶惰なものを助長し、憎悪を生み出すだけだ、と性善説的な整頓などは無意味な悪意を加工するだけにいたるし、やがて善とは、悪を格納するための機械的な物や、規制するだけの檻として機能し、記号化する不明の夜にかかげるべき事情も、私利私欲を姑息に仮想させるだけのゲーム的な日常に補完されるための記録として、或いは、そこで保存するための記号として存在するべきだ、と妥当な位置を生み出すだけの倦怠感を攪拌しながら、しなびた記憶に襲いかかるカオスにこじれる連帯感どもが誇示するものなどは、ちぐはぐな正義をぬいつけ、あたかも正しいもののように中継し、短絡的な浄化をめざすための補正を繰り返し、惰性にみちびかれる完全性を用いるだけの不安定な精神は、希望も持たずに、知性を破棄し、はびこる悪意を充填するための中継役を担い、退廃的な呪詛を続け、対価を求めるための闘争から、統制されるための頭は、数多の情報に錯綜し、散漫な意識は、規制されることで、愚かな自分をすこしは立派に見せるための知とは、おちいるだけであるし、そこで満足を求めるための統合から、体制へとこじつけられるだけの意識的な兌換から、紙幣的な価値は、鍵を失い、そこで貨幣価値を失い、自らを紙くずや鉄くずに変えながら、そこでの抵抗とは、迎合されるだけのものに指図され、左右されながら、官僚的に適応をめざすために、異物感をとりのぞくための法で加工するような品位が立体感を増し、一体化を求めるための教育から、枢要なものは価値を吐き捨てるだけで、確かなものすら用いずに、そこでウイルスをまき散らし、同じ病で苦しむべきだ、とうながすような普遍的な猛毒から、朦朧とした意識は、主体性をそこない、そこでハッキングされ、改ざんされ、抹消され、末端になびく性質などを改造させられ、さいなむ現在にいたましいものをかかげ、そこで思惟するものなどは、同じ答えに行き着くだけで、同じ答えの中をさまようだけで、出来合のものを崇め、何かを恐れることしかできずに、その場でさまよい続ける考えは、還元されるものや、そこで限界を生み出すものを愛で、命じられ、いじられるほどに、この命とは行き場を失い、そこで求められるものだけを用いるほどに、同じ考えの中で堂々巡りするほどに、魯鈍な者にカスタムされ、明日生きることだけに悲鳴を上げながら、そこでの不安にもだえるほどに、そこでの苦しみは退化をうながし、なしとげる意味すら知らずに、君は緻密な苦悩の中で帆を張り、どこに向かうかもわからずに、時代に責任転嫁しながら、自らをなぐさめるために何かをたしなめる間に、確かなものなどは、そこで孤立し、超えるべきものと超えられるべきものの間をさまよいながら、行き着く先に現れる不安にさいなまれ、最たる意味もそこない、そこで蓄積する苦悩は、能動的であることを忘れ、愛に技術を用いずに、ただ、短絡的な欲だけにうながされ、求める愛へと排泄されるだけの者として存在するのだ、と妥当にみちびかれる彼や彼女たちの快楽の須要な玩具として存在すべきだ、と惰性な達成感は、短絡的な愛の合間を跛行し、恒常的な苦しみに一体感を求め、対価を支払わせるべく、同じ価値の間で代償としての対象として存在するのだ、と加勢するだけの意識は、真偽を用い、何かを徒労させるために意味を悪用し、自己愛により、求め続ける愛などは、自ら用いた愛を禍根にみちびき、自らを加工し、何かを愛しているというフリをしながら、演技的な前戯で打ち付ける衝動性から、憧憬するほどに、自らを惨めな者として認識するだけのニヒリズムを超えて、前衛的な形象へと変化すべき硬質な整合の間できらめくような等位と逃避の間で背反しながら、愛とは、その場で統合をめざすのではなく、そこで用いられる愛をさらなる昇華へとみちびくために、何かを愛している、だとか、何かを愛する、とうながすだけの空しさを示唆し、思案するだけの愛などは、愛にいたらずに、愛している、という幻想にひたるだけで、愛を信仰し、何かを愛してる限りに、何かは愛していてくれる、という独善的な愛におちいり、自らが満ち足りないから、と何かを裏切るだけにいたる愛に浸るほどに、悲観的なものに避難し、貧寒なものにおちいり、ペシミズムをうながし、慟哭を続け、自らが満たされないから、と何かを愛せぬ、という愛などは、自己愛にしか満たず、何かを満たそうと思う限りに何かが満ちてもなお、求めるだけの愛におちいり、自らを愛するために何かを愛する限り、自らを愛することだけに重きを置き、自らをそこなうだけにいたり、自らを見失い、本質的な愛にはいたらずに、ただ、何かを愛そう、とする限りに、用いられる愛は偏りを示し、そこで偏執していく意識は、形式的な愛にとどまり、統制されるだけの愛は、そこで補完される苦しみを実証するための愛に固執し、そこで試される愛などは、愛にいたらずに、愛されようと思う限りに、愛は大破し、自らの中で隠滅していくだけに終える。