昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

すこし、わたしのはなしをしよう。

わたしの、はなしをしよう。

何かに隷属するほどに、孤独感は増し、そこから離れる恐怖にいざなわれ、自らの意思を損ない、そこで同調し、協調されるものだけが、自らを聳立させ、正しさへと導くという誤りから放たれるための衝動的なものを授ける夜にあやかるよりも、ここで誤りを正すことだけに現れる意志だけが、自らを作り直す、まる

夜と素数


 砕けた眠りをかかえて、不自然な夢の中での寂寞で謳歌するような瞬間に感情とは弾け、そこで尊さなどを見つけ、渇望し続けるほどに、論理的なものにおどけ、ここで遠ざかるような面影などは、その場での感情に左右されるだけで、正しさとはほど遠いものであり、そこで利用されるだけの者は、代用品としての生き方を瞬間的な爆発をこしらえ、行動的な疎外感やら、孤独感に苛まれる以前に、ここでの生とは、不必要なものに囲まれている云々と語るよりも、ここでの生命的な飛躍をめざすのだ的な昇華よりも、ここでの静寂をたしなむように、過去にとむらわれるだけの思いに群れるだけの者から離れ、胸裏にひしめくドキドキが統合され続けるほどに、正常さなどはそこなわれ、損害などを訴えるだけの屁理屈な輩が這いつくばるような明日などから離れ、願い事などは、ここでの尊さを不要なものに変え、赤裸々に歌うべく、へたくそながらも、ここで響かせる思いだけが共鳴するような夜に潜む者がひそひそ話で語り続けるものなどに耳を塞ぎ、何かを変えるとは、簡単にするよりも難しくあるべきであり、そこでそこなわれるだけの生活に清潔感を求めるよりも、よりソリッドにいたり、寄り添う者を傷つけるような鋭さがなければ、そこで排除され、排外主義に犯され、何かを受け入れることを拒否し続けるようなナショナリズムに偏り、名ばかりのナショナリストは、戦争がしたくてたまらないような、はしたなさをかかえ、果てしない悪意をかかえこんでは、混濁する意識の中で受注し続けるものにしいたげられるような結末を徘徊しながら、明日のしあわせなどを願うことに吐き気すら感じるし、偏るだけにいたる者が示唆するものなどは、境界線を与え、後悔を埋め込み、埋め合わせのために何かを騙すことに専念するだけにひた走るような快楽主義的な開発から、自己啓発的な空疎な言葉が、似合うのだ、と彼女たちは、現実主義的な諦観に犯され、起きることにも嫌気がさし、この空想や仮想でしかない世界を確かなものにさせるための認識を執り行うためにインサートされるものや、衝動性に支えられ、欲望に狩られるほどに、欲そのものに狩られるだけにいたり、何かを借り続けるだけにいたり、ダレた主観から現れる醜いものが零れるほどに興奮する私は、不羈なマゾヒズムであるかのように思われても尚、その醜さにほれぼれするようでいて、本心では飽き飽きしているだけであり、あらゆるものが措置するものの退屈さが生み出す体系的な苦悩を取り除くべく、このベクトルは、散漫な怒りを拒否し、そこで等差を生み出すほどに補足され、等閑にいたらせるだけの虚偽をばらまき、共感などを謳うものに吐き気を催し、朦朧とする意識の過程が生み出すセンテンスに何度も刺されながら、脳内で純化される綺麗事などをきれいさっぱり排除すべきだ、と甘酸っぱい初恋などが訴える間にとむらわれるべき理想などを葬る先を考え、自らの意志のためにかなぐり捨てたものなどに未練すらもなく、ただひたすら進む先にすすり泣く者の哀れを感化させるだけのあいまいな言葉に削除されながら、この長い意味の中に沈殿していく意識は、沈み込むほどに、自らの孤独の中で静かであり、孤独の中で対話を続ける先に現れるものだけが、自らを昇華にいたらせ、そこで逍遥し続ける意識は、商業的なものに利用すらされずに自由なままであり、その自由すらも求めぬからこその自由であることを知ることから、自由という名ばかりの言葉を爆砕し、いっさいは、ここでのビッグバンを終え、無から汎用されるだけの不潔な原子や分子や、構造的な排泄から、掃きだめから引きずられただけの孤独な観念などが脊髄を通過し、ニューロンを破壊し、脳天を引き裂き、あふれ出る血の勢いで目覚めるような哲学だけが、ここでの倒錯を収めるのです、と硬質な者が騙るから、ここでの詭弁あふれるきめ細やかなノイズの洪水に流され、高次であることなどは、醜いものであるし、あらゆる好転を望むほどに、愛とはほど遠くなり、ここでほどこされるものに毒されるだけにいたる夜に唾を吐き、天使すらも潰えた後に神すらも捏造されているのだから、天使などは、はじめから存在しないのであり、ここでの神とは、人間が生み出した私利私欲の化身であり、何かの形式を使い、愚鈍な者を製造するための接続から、寛容を用いずに、何かを排除するための秘訣を訴える間に寂寥たるものは、騒々しいものにしいたげられ、ここでの正解などは、世界を世界として正しく認識させるための詭弁であることに気付くべきであるのに、君はといえば、君であることを諦め、あらゆることを否定し、批難し、自らの首を絞め、悲観的な快楽に浸るようなデカダンスに浸り、ひろがる世界とは、勝ち誇るための汚物をまき散らすだけの世界であり、あらゆるものは、ひとつの力へと引っ張られ、あたかも、自分の力のように扱うから、その力の扱い方も知らぬから、自らを引き裂く前に世界を引き裂くのであろうし、与えられ、あてがわれた世界などは、そこでの世界をあたかも真っ当で扱く自然なように魅せることだけに専念し、本質的な正しさを捨て、見栄えばかりを気にしては、自らの間違いも改めずに、誰かの間違いを正すべきだ、と拳を上げて叫ぶような輩もやかましいが、何もしないで、文句ばかりうながすような奴らもうるさいから、ただ、しじまにとろけるようなこの熱情が、表現や行動を越え、自由であることも忘れ、有限や無限すらも持たずに、うやむやな夜に消える。

すこし、わたしのはなしをしよう。

わたしの、はなしをしよう。

反照する時折にひしめくロジカルな帰り道に乖離していく愛が意味を背反し続け、配する間に示されるものなどに閉め出されてもなお、自らを聳立させ、たちまちに現れる意味などは、意味すらそこない、そこかしこに苦悩を生み出すだけだ、まる

フラクタルな愚行


 互いがぶつかりあって、入り交じる瞬間に、星の終わりのコアや、声色や、ふさぎ込んだイメージに転化していく感性が焦熱し、時代性の陰鬱さに妨げられるよりも、より獰猛に示す値から、死滅していく今をさかのぼるだけの空疎な独り言や、孤独感にさいなまれるほどに、恐怖とは滲み、自らに染みいり、示されるものなどは、終末論を生み出し、自らのペシミズム的な構造に快楽を求め、追従していく意識は、今を重複し、服従することだけが、憂さ晴らしになるのだ、とリベラリストどもがカタルシスをうながす原野に咲き誇るべき黄金の花や、見くびる先々で怯えるだけの日々に証言を残し、限界を作る制度から、カラカラに乾いた異次元で最たる意味を喪失し、足りないものを補うほどに、喪失感を宿すようなロジカルな帰り道には、アイロニーばかりがうるさく脳内を循環し、よろこびにいたらずに、自己中心的な錯綜から、瓦解していく意識的な汚穢に降り注ぐ顕示欲や、現時点に位階を生み出すだけの体たらくな冒険から、死に損ないの明日から、蓄積される緩慢な理想などが、今を騙し続けるだけに堕落し、フラクタルなものほど、同族嫌悪に陥り、自らこそが、正しいものである、と宣言する隙間がかかえる理想が、思想を持ちだし、自らこそが、正義である、と惰性にみちびかれるものに嬉嬉としている様が気色悪く感じ、寛解することもない病を捏造しながら、自分を騙すことで遷延する者が、物事に軋轢を生み出し、絶えず闘争を導くほどに怯える先々で締結していくものが、諦観をうながし、提携することでしか、自らの力を強調できずに、そこで強調されるものも、同調を求め、同情へといたらせるべくうそぶく始末に嗚咽をうながす君の感情論的な束縛から、現実的なだけで、適当に適応することだけが、この世界での役目を果たし、役割に背負わされた義務や、担う意味の中で、正しく思考することだけが、ここでの生き方をたやすくするのだ、という哀れを加速させ、ひた走る先に衝突することすらお構いなしに進むことがエゴイズムように語られるが、それは単なる独善的であり、当然だ、と蹴落とす先におちいる闇しか生まれず、そこで屍骸と化するだけにいたるのに、何をそんなに誇示し、堅持しているのか、と形而上的に示されるものに絶えず証拠を残すことだけが、この存在をぞんざいなものに変えるのであり、そこで不確かな何かを追い求めることだけが、自らを癒やすのだ、と人の皮をかぶった家畜たちは語るが、自らを懈怠に気付かずに、何かを着込んでは、自らこそが主役であるだ、などとうながすような自由などは、自由に利用されるだけであり、デカダンなままに何かを想定し、そこで蓄積される苦悩に支払う義務などを与える間に応じる答えなどは、答えに達する前に、構築され続けたものに加工された義務を愛してるようなふりをして、自らを善人のように仕立て上げ、善意を押しつけ、そこで与えられる疑問にすら答えられずに、適当に与えられた答えに偏り続けることでしか、自らを認識できぬような者に存在は与えられず、そこで軽薄なままに存在の軽さに苦しめられ、そこであらがうこともしないで、支配的な余韻に因果律や、合致するイズムや、そこで意地になり、担うべき意味もそこない続けることが、行動のように騙られ、便利になるほどに利便性だけを求められるなどとうながすようなナチュラリスト的な補完などが示す自然回帰などは、自然の本質すらに気付かずに、自然の驚異を知らずに、自然に帰ることこそが、ここでの疲れを癒やす的なまやかしを用い、そこで適応できずに、そこで苦しむことから逃れるためだけに絶えず何かを騙すことだけが、自分を守ることなど、とうながすような者が語ることには耳も貸さず、ここで重用とされるものなどは、自らの重篤さに気付かずに、自らの行いだけが、何かを正す的なまやかしに騙され、絶えず何かとの闘争を企み、そこで蓄えられたものを収奪するために集団心理を利用し、能動的に生きさせないように、生きたままに遺棄し、善良な市民を演じさせるための法で加工し、罪の意識をたたき込み、互いを監視するわりには、互いに無関心だ、という矛盾を孕みながら、誰かを嫉妬し、何かより勝るために執り行われる義務の中でしか、自らを認識できないような者が左右されるコマーシャル的な普遍性に締結していくだけの意識が生み出した衆愚の中で、自らの役割を見つけるための演出がほどこされ、どのように生きるかを示されないから、と自らの生き方すら見出せぬような教育などは、何のための教育なのか?とほどこされる意味に縫合されたままでは、自らの傷を縫い合わせることすらできずに、誰かに縫われるために今にさまよい、今に見失い、何かに流されているほうが楽だ、とフラクタルなものに陥り、そこで与えられた秩序だけが、自らを守るなど、とうながすことが、正しいことのように扱われ、厚かましいものが慢心を生み出し、閉塞感を打ち破ることもできずに、ここで出来合のものを信じ崇め、そこでたてまつられたものが、神と名付けられ、退廃的な産業に駆逐され、自らの残骸を愛するだけの退廃的なモジュールとして生き、軽薄なものに接続され、観念の安寧すら保てずに、用いられるものに中庸を毒され、どちらかに偏ることだけが、自らの正しさを演出させるのであり、そこで円熟するものだけが、自らの正しさを弁証法的に飛躍させるなどと甘い言葉でいざなうような陰鬱な支配の気配から、ただよう軽薄な理想などは、理論を構築させ、高次へといたらせもせずに、ただ体制が設置するものに物事を決め込まれ、ひとひとりすら守れずに、何かを保つための闘争から、倒錯し続ける先にうながされる平和などは、平和を保つための戦争を利用し、理由を用い、何かを保つために摩耗し続けるような矛盾にすら気付かずに、自らが正しい行いをしているように思わせるだけの詭弁に利用され、領土を奪うために、或いは自らを潤わせるためだ、とうそぶくような輩が用いる金銭的な毒素から、独創性を奪うための憎悪を利用し、争いにこそ、能動的であるべきだ、と語るようなプロパガンダが横行し、今を利用し、理性を奪わせ、欲のために欲を使い切るべきだ、というベクトルに向けるための無神経な排除を続けるような改正を続ける。この世はサディストばかりだ、と閉塞感に汚れ、今の悲しみに擁護されているだけでは、何かの抵抗に巻き込まれ、自らの意志をそこない、誰かの力こそが、自らの力に変わるなどという幻想に飲まれる前に自らを見出し、自らの力だけが、位置的な至福に騙されずに、絶えず己の価値を乗り越える限りに家畜として終わらずに、今の苦しみを超克し続ける。

夜の国


 砕けた眠りをかかえて、不自然な夢の中での寂寞で謳歌するような瞬間に感情とは弾け、そこで尊さなどを見つけ、渇望し続けるほどに、論理的なものにおどけ、ここで遠ざかるような面影などは、その場での感情に左右されるだけで、正しさとはほど遠いものであり、そこで利用されるだけの者は、代用品としての生き方を瞬間的な爆発をこしらえ、行動的な疎外感やら、孤独感に苛まれる以前に、ここでの生とは、不必要なものに囲まれている云々と語るよりも、ここでの生命的な飛躍をめざすのだ的な昇華よりも、ここでの静寂をたしなむように、過去にとむらわれるだけの思いに群れるだけの者から離れ、胸裏にひしめくドキドキが統合され続けるほどに、正常さなどはそこなわれ、損害などを訴えるだけの屁理屈な輩が這いつくばるような明日などから離れ、願い事などは、ここでの尊さを不要なものに変え、赤裸々に歌うべく、へたくそながらも、ここで響かせる思いだけが共鳴するような夜に潜む者がひそひそ話で語り続けるものなどに耳を塞ぎ、何かを変えるとは、簡単にするよりも難しくあるべきであり、そこでそこなわれるだけの生活に清潔感を求めるよりも、よりソリッドにいたり、寄り添う者を傷つけるような鋭さがなければ、そこで排除され、排外主義に犯され、何かを受け入れることを拒否し続けるようなナショナリズムに偏り、名ばかりのナショナリストは、戦争がしたくてたまらないような、はしたなさをかかえ、果てしない悪意をかかえこんでは、混濁する意識の中で受注し続けるものにしいたげられるような結末を徘徊しながら、明日のしあわせなどを願うことに吐き気すら感じるし、偏るだけにいたる者が示唆するものなどは、境界線を与え、後悔を埋め込み、埋め合わせのために何かを騙すことに専念するだけにひた走るような快楽主義的な開発から、自己啓発的な空疎な言葉が、似合うのだ、と彼女たちは、現実主義的な諦観に犯され、起きることにも嫌気がさし、この空想や仮想でしかない世界を確かなものにさせるための認識を執り行うためにインサートされるものや、衝動性に支えられ、欲望に狩られるほどに、欲そのものに狩られるだけにいたり、何かを借り続けるだけにいたり、ダレた主観から現れる醜いものが零れるほどに興奮する私は、不羈なマゾヒズムであるかのように思われても尚、その醜さにほれぼれするようでいて、本心では飽き飽きしているだけであり、あらゆるものが措置するものの退屈さが生み出す体系的な苦悩を取り除くべく、このベクトルは、散漫な怒りを拒否し、そこで等差を生み出すほどに補足され、等閑にいたらせるだけの虚偽をばらまき、共感などを謳うものに吐き気を催し、朦朧とする意識の過程が生み出すセンテンスに何度も刺されながら、脳内で純化される綺麗事などをきれいさっぱり排除すべきだ、と甘酸っぱい初恋などが訴える間にとむらわれるべき理想などを葬る先を考え、自らの意志のためにかなぐり捨てたものなどに未練すらもなく、ただひたすら進む先にすすり泣く者の哀れを感化させるだけのあいまいな言葉に削除されながら、この長い意味の中に沈殿していく意識は、沈み込むほどに、自らの孤独の中で静かであり、孤独の中で対話を続ける先に現れるものだけが、自らを昇華にいたらせ、そこで逍遥し続ける意識は、商業的なものに利用すらされずに自由なままであり、その自由すらも求めぬからこその自由であることを知ることから、自由という名ばかりの言葉を爆砕し、いっさいは、ここでのビッグバンを終え、無から汎用されるだけの不潔な原子や分子や、構造的な排泄から、掃きだめから引きずられただけの孤独な観念などが脊髄を通過し、ニューロンを破壊し、脳天を引き裂き、あふれ出る血の勢いで目覚めるような哲学だけが、ここでの倒錯を収めるのです、と硬質な者が騙るから、ここでの詭弁あふれるきめ細やかなノイズの洪水に流され、高次であることなどは、醜いものであるし、あらゆる好転を望むほどに、愛とはほど遠くなり、ここでほどこされるものに毒されるだけにいたる夜に唾を吐き、天使すらも潰えた後に神すらも捏造されているのだから、天使などは、はじめから存在しないのであり、ここでの神とは、人間が生み出した私利私欲の化身であり、何かの形式を使い、愚鈍な者を製造するための接続から、寛容を用いずに、何かを排除するための秘訣を訴える間に寂寥たるものは、騒々しいものにしいたげられ、ここでの正解などは、世界を世界として正しく認識させるための詭弁であることに気付くべきであるのに、君はといえば、君であることを諦め、あらゆることを否定し、批難し、自らの首を絞め、悲観的な快楽に浸るようなデカダンスに浸り、ひろがる世界とは、勝ち誇るための汚物をまき散らすだけの世界であり、あらゆるものは、ひとつの力へと引っ張られ、あたかも、自分の力のように扱うから、その力の扱い方も知らぬから、自らを引き裂く前に世界を引き裂くのであろうし、与えられ、あてがわれた世界などは、そこでの世界をあたかも真っ当で扱く自然なように魅せることだけに専念し、本質的な正しさを捨て、見栄えばかりを気にしては、自らの間違いも改めずに、誰かの間違いを正すべきだ、と拳を上げて叫ぶような輩もやかましいが、何もしないで、文句ばかりうながすような奴らもうるさいから、ただ、しじまにとろけるようなこの熱情が、表現や行動を越え、自由であることも忘れ、有限や無限すらも持たずに、うやむやな夜に消える。

フラクタルな愚行


 互いがぶつかりあって、入り交じる瞬間に、星の終わりのコアや、声色や、ふさぎ込んだイメージに転化していく感性が焦熱し、時代性の陰鬱さに妨げられるよりも、より獰猛に示す値から、死滅していく今をさかのぼるだけの空疎な独り言や、孤独感にさいなまれるほどに、恐怖とは滲み、自らに染みいり、示されるものなどは、終末論を生み出し、自らのペシミズム的な構造に快楽を求め、追従していく意識は、今を重複し、服従することだけが、憂さ晴らしになるのだ、とリベラリストどもがカタルシスをうながす原野に咲き誇るべき黄金の花や、見くびる先々で怯えるだけの日々に証言を残し、限界を作る制度から、カラカラに乾いた異次元で最たる意味を喪失し、足りないものを補うほどに、喪失感を宿すようなロジカルな帰り道には、アイロニーばかりがうるさく脳内を循環し、よろこびにいたらずに、自己中心的な錯綜から、瓦解していく意識的な汚穢に降り注ぐ顕示欲や、現時点に位階を生み出すだけの体たらくな冒険から、死に損ないの明日から、蓄積される緩慢な理想などが、今を騙し続けるだけに堕落し、フラクタルなものほど、同族嫌悪に陥り、自らこそが、正しいものである、と宣言する隙間がかかえる理想が、思想を持ちだし、自らこそが、正義である、と惰性にみちびかれるものに嬉嬉としている様が気色悪く感じ、寛解することもない病を捏造しながら、自分を騙すことで遷延する者が、物事に軋轢を生み出し、絶えず闘争を導くほどに怯える先々で締結していくものが、諦観をうながし、提携することでしか、自らの力を強調できずに、そこで強調されるものも、同調を求め、同情へといたらせるべくうそぶく始末に嗚咽をうながす君の感情論的な束縛から、現実的なだけで、適当に適応することだけが、この世界での役目を果たし、役割に背負わされた義務や、担う意味の中で、正しく思考することだけが、ここでの生き方をたやすくするのだ、という哀れを加速させ、ひた走る先に衝突することすらお構いなしに進むことがエゴイズムように語られるが、それは単なる独善的であり、当然だ、と蹴落とす先におちいる闇しか生まれず、そこで屍骸と化するだけにいたるのに、何をそんなに誇示し、堅持しているのか、と形而上的に示されるものに絶えず証拠を残すことだけが、この存在をぞんざいなものに変えるのであり、そこで不確かな何かを追い求めることだけが、自らを癒やすのだ、と人の皮をかぶった家畜たちは語るが、自らを懈怠に気付かずに、何かを着込んでは、自らこそが主役であるだ、などとうながすような自由などは、自由に利用されるだけであり、デカダンなままに何かを想定し、そこで蓄積される苦悩に支払う義務などを与える間に応じる答えなどは、答えに達する前に、構築され続けたものに加工された義務を愛してるようなふりをして、自らを善人のように仕立て上げ、善意を押しつけ、そこで与えられる疑問にすら答えられずに、適当に与えられた答えに偏り続けることでしか、自らを認識できぬような者に存在は与えられず、そこで軽薄なままに存在の軽さに苦しめられ、そこであらがうこともしないで、支配的な余韻に因果律や、合致するイズムや、そこで意地になり、担うべき意味もそこない続けることが、行動のように騙られ、便利になるほどに利便性だけを求められるなどとうながすようなナチュラリスト的な補完などが示す自然回帰などは、自然の本質すらに気付かずに、自然の驚異を知らずに、自然に帰ることこそが、ここでの疲れを癒やす的なまやかしを用い、そこで適応できずに、そこで苦しむことから逃れるためだけに絶えず何かを騙すことだけが、自分を守ることなど、とうながすような者が語ることには耳も貸さず、ここで重用とされるものなどは、自らの重篤さに気付かずに、自らの行いだけが、何かを正す的なまやかしに騙され、絶えず何かとの闘争を企み、そこで蓄えられたものを収奪するために集団心理を利用し、能動的に生きさせないように、生きたままに遺棄し、善良な市民を演じさせるための法で加工し、罪の意識をたたき込み、互いを監視するわりには、互いに無関心だ、という矛盾を孕みながら、誰かを嫉妬し、何かより勝るために執り行われる義務の中でしか、自らを認識できないような者が左右されるコマーシャル的な普遍性に締結していくだけの意識が生み出した衆愚の中で、自らの役割を見つけるための演出がほどこされ、どのように生きるかを示されないから、と自らの生き方すら見出せぬような教育などは、何のための教育なのか?とほどこされる意味に縫合されたままでは、自らの傷を縫い合わせることすらできずに、誰かに縫われるために今にさまよい、今に見失い、何かに流されているほうが楽だ、とフラクタルなものに陥り、そこで与えられた秩序だけが、自らを守るなど、とうながすことが、正しいことのように扱われ、厚かましいものが慢心を生み出し、閉塞感を打ち破ることもできずに、ここで出来合のものを信じ崇め、そこでたてまつられたものが、神と名付けられ、退廃的な産業に駆逐され、自らの残骸を愛するだけの退廃的なモジュールとして生き、軽薄なものに接続され、観念の安寧すら保てずに、用いられるものに中庸を毒され、どちらかに偏ることだけが、自らの正しさを演出させるのであり、そこで円熟するものだけが、自らの正しさを弁証法的に飛躍させるなどと甘い言葉でいざなうような陰鬱な支配の気配から、ただよう軽薄な理想などは、理論を構築させ、高次へといたらせもせずに、ただ体制が設置するものに物事を決め込まれ、ひとひとりすら守れずに、何かを保つための闘争から、倒錯し続ける先にうながされる平和などは、平和を保つための戦争を利用し、理由を用い、何かを保つために摩耗し続けるような矛盾にすら気付かずに、自らが正しい行いをしているように思わせるだけの詭弁に利用され、領土を奪うために、或いは自らを潤わせるためだ、とうそぶくような輩が用いる金銭的な毒素から、独創性を奪うための憎悪を利用し、争いにこそ、能動的であるべきだ、と語るようなプロパガンダが横行し、今を利用し、理性を奪わせ、欲のために欲を使い切るべきだ、というベクトルに向けるための無神経な排除を続けるような改正を続ける。この世はサディストばかりだ、と閉塞感に汚れ、今の悲しみに擁護されているだけでは、何かの抵抗に巻き込まれ、自らの意志をそこない、誰かの力こそが、自らの力に変わるなどという幻想に飲まれる前に自らを見出し、自らの力だけが、位置的な至福に騙されずに、絶えず己の価値を乗り越える限りに家畜として終わらずに、今の苦しみを超克し続ける。