昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

育成


 物事に終わりにひしめくものが、物語を壊し、収斂していく閃きから、簡単に処理されるだけの昨日がのこのこと近付き、地殻変動を及ぼし、未来を汚すまでの間から敷衍していく出来事が、瞬間的に隷属し、適任する者だけが、本質などを謳い、用いられる政治性などは、性的なものに犯され、堅持し続けた意味が大義などを用い、前衛的な果てにモラルなどを用い、藝術的な性感帯をまさぐるほどに、魯鈍な者が、倫理を用い、創造性をけちらしながら、激情へといたり、さまよい続ける意思は、夜通し本質を見つけるための冒険へと旅立つことすら愚かだ、と妥当な位置から持ち上げる意味を利用し、死へといざなうための領土を生み出し、改良されるだけの意味が完治しない苦悩を高らか、と歌い上げ、真理にもとづく悔悟から、求められるだけの愛へと干渉するだけの悲哀にもとづく迎合から、私たちは、短絡的な神を創造し、用いられるだけの愛へと苦しめられることだけが、今を均等にし、平等へと近付くのだ、という幻想がうながす真実などに靄をかけるだけの生き方を製造し続けるための生産的なキャピタリズムの立派な車輪として、或いは、踏みつけられるだけの機械的な石として、道ばたに転がるだけに溜め込む憎悪が混濁し、混沌へといざなうだけの快楽へと収納されるためだけに、ためらわずに、何かをツールに変化させるよろこびに浸るほどに、人間的なものから懸け離れ、人間的なものから抜け出せずに、惰性にえぐられた身体を傍観する他者から借りた存在や、存在意義などを謳うだけのまやかしがコード化し、感性を奪うための戦争から、専横される主体をひるがえすための闘争を永続させるために、誰かを傷つけるための倒錯を生み出し、錯雑とした観念が還元するだけの今に迫る妄想が生み出す悲劇に流動するだけの本質などが、真実などを謳い、ことごとくを空疎なものに変え、モニュメントを生み出すだけのニヒリズムを加工し、死が伝達し、伝統を守るために摩耗する今を破壊するだけのバンダリズムへと移行するほどに増していく快楽から、解体すべき悲劇を呼び起こすための過去を流用し、かもにされるだけのオプティミストどもが徘徊する深夜の劇的な悪夢へと吸い込まれていくほどに補正される真実などがねじ曲げられたものを、ねじ曲げられたままに愛するほどに、普通とは強化され、そこで普通とされるものだけが、真実を語るのだ、という偏執から逃れぬ限りは、懐疑的に悲劇を愛するだけのペシミストで終わるのだ、と始まりと終わりを用いるほどに、物事とは互いを騙すための善悪を決め込み、そこからエクソダスべく、厭世観を流動させるだけのペシミストどもが餓鬼に変わり、繰り返し反芻するほどに、普通というものは美味くも不味くもなく、不感症的な者が用いる丹精込めた法だけが、一般的なものを裁きにかけ、罪の意識を課せられるほどに機械的な痛みは増していき、浸食していく痛みが反響し、全体性にひろがる痛みは、全体主義へと移行し、体制は、死を用い、何かを脅すほどに、人々は、ひとつの破壊へと導かれ、自己を破壊し尽くし、ひとりひとりに用いられる世界性をも破壊し、そこで歌われるものだけが、真実を語るのであり、唱和されるものを同じように歌い上げることだけが、ここでの正しさを騙り続ける限りに、誰ひとりとして、自分を自分として認識すらできずに、存在自体の誤りに気付かずに、過ちを流動させ、そこで課せられる罪を皆でかぶることだけが、ここでいぶかることすらも放棄し、そこに現れるものだけが、現実であり、そこで語られるものだけが真実である、という過ちにこそ気付くべきであり、そこで濃し続ける先に現れるどす黒い過ちが加速し、法は罪を捏造し、罪は、法を加工し、そこに用いられる正義は悪を利用し、そこに現れる悪は、正義の前で演技を続け、自らを悪い者に仕立て上げるほどに増していく快楽に支配され、義務感に苛まれ、あらゆる根源は、善悪どちらにもなく、ただ、現れるままに善と悪の両方は、互いを裏切り恨み続けるほどにルサンチマンをかかえ、不満を抱え込んでは、憤懣へといたり、誰かを恨むことで増していく快楽の虜になり、担うほどに、意味とは、そこでちぐはぐなものをかかえ、かかえる思いとは、重荷に変わるだけであり、そこで加工されるだけの真実などは、真実を孕まずに、何かを純粋に破壊するための希望を加工しながら、何かを純粋に破壊するために迎合される真実などを崇めるほどに、購うだけの意識は、形式的なものを愛し、嫌疑をかけずに、快感に浸り、悲観するだけのプロセスを歩み、自らを裏切るほどに、誰かを殺めるような製造器として、あらゆる現時点を踏みつぶす。追憶に比する価値へといたらせるための論理を吸収しながら、敢行し続ける純粋な意思は、瞬時に物事を超え、そこでこじれるだけの意味に垂涎する者どもの卑屈などを飛び越え、すぐさまひるがえすことから、ここでの行いは、言葉の正しさよりも、ここでの行いの正しさよりも、そこで正しいとされるものを超越し、自らをもひるがえす辺りから、本質とは、真実を騙らずに、自分自身に帰宅し、すぐさま何も持たずに抜け出し、あらゆるものを飛び越える跳躍力だけを育てる。