うるさいだけの月日も流れ、倦怠感を濾過し、静寂に身を寄せては、ひるがえす瞬間とは依然としてまとまりも無く、空回りするだけの日々にままならぬ姿で配膳されるだけの意味に吸血され、悲観的なものに同化し、感動を安売りするだけの時代性や、整容される日々に追従する欲だけの者どもの輪唱から、それを否定する性悪説をうながすだけの堕落した感情とも訣別し、感じようによりけりである、と或いは、善悪を用いるほどに退屈は増していくのであるのだ、と短絡的な消費を終え、生じる由縁に回答を求めるよりも、ここで韜晦し続けることにより、何かに寄りかかり、保身をうながすよりも、生き死にを高らかに歌い、自らの存在価値などを引き上げるための道理などは、理屈でしか無く、卑屈な者が持ち上げるものなどは、用いられるものに満足するために日々をごまかし、何かを斡旋し、配線を混濁させ、ショートするまで、同じような原理になおざりになりながら、座標をも狂わすようなほほえみに縫合される短絡的な動機が示す気配などが意思すらも奪い、対するだけの日々の対象として多目的に分裂するマジョリティーなものが打ち出すこころみなどは、ここで批判されることも無く、正しいもののように崇められ、いずれかは神として崇められるために費やされた数百年や、数千年の義務的な要素が欠落を生み出すだけに至らせるのに、とバンダリズムはカタルシスに至らずに短絡的な破壊に至り、自らのタナトスが用いる独善的な数理により、時間の中でしか生きられないような結末に浸り、ペシミズムにおちいるための経路を生み出す悔悟から、悔悛を求め、罪を背負わせるための罪を用意し、安易に配される愛だけが、弔いを続けるのだ、と同情的な結末に迎合される者が用いる契合により、対比されるための結末で渇望する私とは、絶えず分裂するために存在するのですね、と羨望のまなざしで、神としてとがめられる者を守るための自己犠牲的な反乱を抑え込むための法を用意し、幼稚な汚濁が迫り、一部始終を無残に飲み込んでいくことにより、混濁した精神は、正否を超えて、ただ破壊される様子を傍観する傍観者として、関するほどに感覚とは麻痺し、そこでの行為とは卑劣なものにすぐさま変化し、変換されるものなどは、価値に論難をあびせるための家畜としての生き方、と奴隷としてひざまずき、同じようなほころびをとがめるだけの答えを用意し、等位を生み出し、自らにひざまずかせるために何かを無様に変容させるための生贄を絶えず用意し、皆の苦しみを昇華させるための祭りから、ただ垂涎し、まだ足りない、とうながすための宣伝から、専横される脳内は、受理するものを受託し続けては、携帯する義務感にさいなまれ、済世を行わずに、快楽的な傀儡として生きることだけが、すべてに反するものだ、とうながすような快楽的な革命のアクメへと至らせるための高揚感を利用し、抱擁されたよろこびを虐げ、ただ何かを排泄するためだけに、この命とは統合されるのだ、と徒労を重ねる精神は、敬神にすら至らずに、短絡的な破壊におちいり、自らをテロリズムのロジックに嵌め込んでは、混濁する意識は、何かを愛することにより、よりよい価値を生み出すのだ、という快楽的な愛の押し売りから、応じる答えに偏見を持たずに善悪を超え、何かを問い質すような弁証法すらも飛び越え、不羈なままに、そこで継続された意味すらも跳躍し、寵愛を与え、相対するためだけに対象とは、そこら中に移住し、異常な性欲を加速させ、回転する義務感にさいなまれながら、恒久的な苦しみにいたずらされ、指図され、最たる意味を老化させるためだけに、この命とは、ためらいすらも持たずに、用いられる義務だけを追求し、鬱々としたものをかかえながら、今に混濁し続ける意思的な過ちを従え、自らを独善的な独裁者に変化し、毒された世界を形成し直すのだ、という過ちから、あいまいな力を手に入れた君は、自らの偏りを正せずに、自らの正しさだけを迎合させるために繰り返す暴力的に締め上げる先々で使命感は頽廃し、ただ自らに反する者を処刑することで自らの不安をかき消すようなこころみだけが、世界を正しく進めるのだ、という過ちに気付かずに、ただ独善的に迫る意味にからまる結末に滑落し、悔悟を生み出し、改造されるだけの日々は、いびつなままに物事を愛することを愛されるためだけの行動であり続けることに気付かずに愛されるためだけに求める愛とは、いつまでも満たされることは無い。我々には故郷すらも無く、ここで呼吸する権利すらも無いのである、とうながすようなペシミストの隊列から離れ、蔓延る悪意を受理するほどに簡単に悪に染まるのでは無く、ただ自らが用いた悪意が悪を呼び覚まし、自らに悪を引き寄せ、自らを簡単に処刑するように他者を簡単にかき消すための行為が依然として正義として崇められている。