昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

均衡


 今まで虐げられた文明的な対価から、用いられる偏見に苛立つ両者の対立から、退廃的なモジュールをつなげ、いくばくかの可能性をほどこすだけのイデオロギーを掲げ、権利を主張するだけの宗教的な狂騒へと入り組んだ意識は、陰鬱な衝動を重ね、訪問する意思に反し、ここに現れるものをことごとく裏切ることだけに精通していき、逸脱し続ける限りに現れるものに毒され、制される間に性差を生み、苛まれる記憶に臆するだけの過程や、デカダンな時折にひずむ悠遠へと導かれるだけの怯えた精神は、献身的な加護を受けるべく、祈りを続け、そこに現れる幻想を愛することを幸福と思う限りに、幸福とは克服されずに永続されるが、そこに現れる意思的な幸福とは本質的なものであり、その場で捉える多幸感は、自らを制さずに解き放ち、確かな愛に変換され、放たれる意思は、そこで監視されずに、自らの意志を信仰のために注ぐだけの力を蓄え、物事の硬質をとろかし、ここに現れるものを信仰的に昇華させることだけが、物事の本質を知る手立てに変わるのだ、と思い込む力だけが絶対的な力であり、そこに生み出される信じる心とは、通わす意味に緩衝を終え、互いを許すことから始めることにより、何かに寄りかからずに、偏る限りに陰る真実も、全体主義的なものに汚されずに、純粋な信じる心だけが、真実を掴むのである、と思う限りにたぎる信仰は大義を用い、用いられるものに支払われる代償である死をも超越し、そこにこしらえられる永遠だけが、すべてと統合を終え、信条こそが、正常なものであり、そこに現れる信仰的な清潔感だけが世界を確かなものに変化させ、そこに現れる苦痛をも昇華させ、そこで消費されるだけの資本的な売買のしあわせよりも、そこで買い取られるだけの義務に専念するよりも、自らの信仰を正し、そこで清く祈ることだけが世界を清潔なものに保つと信じることだけが、「しあわせを膨張させ、そこに現れる差異に反し、ここに現れるものだけを自らの意志と同化させ、確かなもののように演じることにより、自らを愛するということを知り、そこにこしらえられたものがたとえにせものであっても、そこで信じたものだけが、真実を語るのである」と宣言する辺りから、神的なものが描く真実との合致を終え、自らを信仰の度合いが強化され、そこで強固になった意思がレジスタンスに変わり、狂信的なものがテロリズムに移行する限りに純粋な信仰とは、義務に捕らえられ、そこで描かれる真実だけが、唯一の幸福へと誘うのだ、と宣言されることにより、自らを喪失し、純粋な真理はやがて、もうろうとしていき、逸脱する限りに陰る本質は、真実を損ない、そこに現れる苦痛を昇華させるために変換される偏見を生み出し、何かを憎むことから、純粋さを損ない、そこに生み出されるべき愛すらも損ない、何かを憎むことから、愛とは芽生えるのだ、と専横する意識的な洗脳から、譫妄へと至る互いに迫るカタトニーから、快楽を受容し、意味の傀儡として言葉狩りを続けるパノプティコンの中心に立つ中央集権的なまがい物の貪婪な獣として好き嫌いせずに食い散らすだけの契合された獣が描く真実により、ファシズムは加速し、そこに原理的な苦悩を生み出し、そこであらがうほどに苦しみとは増すらしい、と虐げられる間に信仰とは強化され、そこに用いられる苦痛から逃げ出すためだけに多面との闘争を続け、伝わる意思的な還元から、緩慢に作用する動機が物事を左右させ、信仰的な許しを得るべく、物事をえぐるためだけに信仰とは扱われ、何かの権利を奪うためだけに用いられる嫌疑から、倦厭され続ける間に値を用い、採算を合わせるためだけにあてがわれる互いに緩慢に作用する幸福を超えられぬ限り、ここに生み出される価値を散財する者といて、意味のないものばかりを追いかけることだけに専念するのが、幸福である、という誤りに気付かずに、既読されるだけの運命として、傍観し続けるだけに惰性な価値を追従することだけが唯一の幸福として問いかけることも知らずに、そこで監視し続け、批判的に『毎日を終える』ことだけが定理であると勘違いをほどき、おどけているようで実は、怯えているだけに過ぎず、そこに現れる恐怖から逃げ、何かにあらがうことを知らぬから、何かを監視し、何かを批判することだけが、自らの恐怖をごまかすことで安心感を得るような安易で簡易なものを積み上げるほどに、罪の意識は倍増し、今に拗れる意図から、意味的な肥満を続け動けぬようになるまでを傍観し続けるだけの自らをも乖離させたような理解では、今にあらがうこともできずに、悲観することでしか、今を判断できずに、闘争へと至らずに統合を謳うことで、自らの正常さを正当なものに変えることが正常などと謳われていることに過ぎずぬなら、皆が皆何かの精神的な病であり、そこに生み出される物事との距離を埋めることだけに専念するのが生命の役目だ、と幼稚に宣言する間に生まれる誰かとの間隔に嵌め込まれるだけの正しさが、正しさであるならば、今に生まれるものなどは依然として幼稚なものであり、以前から備わる意味などは、無意味なものを今に敷衍させ、既得権を守るためだけに摩耗されるのが、私たちの役目なのだ、と押しつけられ、抑圧され続ける間に生まれる抵抗こそが、純粋な意思であろうし、そこに信仰すらも用いずに、現れる原理にあらがうことだけが、真実へと至る道であるし、そこに現れるものを批判し続け、昇華し続けることが、批判の役割であるし、ここに現れるものなどは、ほとんどにせものであるし、ここで語られるものも、すぐさま飛び越えられるべきである。