何かの妨げ
純粋な姿勢を持つ思想は、何かを狂わすものを持ち、自らを見失い、闘争へと身を捧げる。その供儀に参加する意識的な誤りすらも、誤りとは認めらず、何かに没入し、没落しても尚、自らを正しいとすることを否定はできない。用いられる均衡とは、所詮は測り、比較するための平衡であり、そこに現れる均衡などは、対立を深め、軋轢をもたらすだけに満たず、今に満ち満ちていく憎悪が補完する物語の中で満たされぬイデオロギーに没入するほどに、自我とは破壊され、時間の中に墜落していく。『被害者意識を抱え、メロウな時折にひずむ時間の外との公約を守るための政治性が生活環を圧迫し、陰りを生み出すだけの刺激だけが、快楽を誘い、淡泊な生活を加速させ、今に求める快楽の需要を増すほどに、人間性とは制度の中で壊れ、形有るものに有する価値や、そこに生まれる過程に阻まれるだけの精神をむしばむような貪婪さが論難を用い、何かを否定し続ける限りに負荷を与え、生きることとは、苦しむことなどという幻想を生み出し、今に枷をはめ、自らを否定し続ける限りに陰る本質は、存在自体を韜晦させ、今に屈従することでしか判断を担えず、確かな意味を受け取るようで、それは、与えられた義務だけに従事し、自らの意志では何ら行動すらも起こせぬような機械的なものは否定に値する』相対する意識的な諦観から、葬られる存在とは、宇宙的な真理に至らずに、ここで調和するための真理を真理として持ち上げ、今に拘束するだけに至り、今に慢心を生む。即座に諦観へと誘うだけの調和とは、共存共栄を謳い、自由により麻痺された精神を拘束するための自由を利用し、今に理由を当てこすり、あらがう者を否定し続けることが正義だ、という勘違いを生む。あらゆる倒錯を生み出し、踏み台にするだけの答えにへりくだるような演技を続ける正義が君の自由を奪うだけに至るまでの過ちを加工し、ここに品位を生み出し、倫理で今をごまかし、そこでインモラルなものを掲げるものを否定し続けることにより増していく快楽を重用とし、都市間に現れる幸福論的な象徴である経済を保つための過ちこそが正当化されるべきだ、というような教育に閉じられる永遠性に制度は扶養することだけが、唯一の正義であり、現在を保つことだけが、原罪を否定し、自らを利己的なものに捏ね上げるような道具として、或いは傀儡として生きるためのセンテンスなどを用い、何かを攻撃することだけが、自らの快楽を収めるような行動であるなどと促すような行動などは、今に動向を失い、自らの喪失感に耐えかねずに、価値観を葬り、今に屠られるだけに至り、放逐されるだけに至るような精神性などが退廃的なものを用い、物事を利己的に捉え、こしらえられる価値を信仰することに依存することだけが、正しいことのように扱われているのであり、ここに措置されるだけの救済措置などは、今をごまかすための行動であり、そこで拘置されるだけに至り、永続的な苦しみを死しても尚、味わうようなものを永続させることだけに専横する主義の虜として、利己的なものを育て上げ、井蛙な者が刺激する惰性な論理に加勢するほどに、一過性のものを謳い、あらゆる意味を透過させているようで、問うことを否定し、今に悲観することだけを目的に何かを煽るようなアジテートから、意味は膠着し、今に苦しむことが論理であり、それが哲学であるなどという苦しみこそを逸脱すべく、楽しむことの異常さを保持するような創造的な飛躍を目指し、今に演奏を続け、狂ったように分断し続ける先に老けることの恐れや、死すらも超越するような過ちから、誤りを生み出しても尚、第三者の目に苦しまぬように、今に劇的な飛躍を遂げ、自ら踊り続けるよろこびから、ここで膠着しないように、論理の外に出るべく、宇宙と名付けられる以前の空間との融合を目指すような異様な高揚感とは、創造的な飛躍でしか得られず、そこに現れるものをそのままにむさぼる観念からの離脱を目指し、理想を捏ねるだけの捏造的な社会を写生するだけでは、模倣するだけのものとして物質的に扱われ、利用されるだけに至るのであるし、その利用から価値を生み出すものなどは、高尚なものなどなく、そこに現れるものを価値として崇めるような信仰心を生み、そこに締結していくだけの破壊的なニヒリズムを育て、自らのペシミズムを癒やすような戦争を増やしていくような世界などは、世界と呼ばれるだけの名ばかりの箱であり、この箱庭から脱するべく死へと誘うよりも、生を昇華させ続ける先に現れる創造的な飛躍だけが、永遠性を捉え、制度を否定し、自らの自由に利用されずに、自らの希望を肥やしに何かを利己的に搾取するだけの悪趣味な主義にアクセスせずに、今に設置された義務を引っこ抜き、自らの位置など持たずに、律儀に流される血を否定し、今に現れるものを創造性だけで捉え、逍遥し続けることのよろこびだけが、価値と言えるようななにものか、である。