監視を続けるだけの悪魔や幽霊どもが傲岸不遜に正しさを屹立させ、未熟な観念が描く号外をばらまきながら、わざわいを呼ぶだけの言葉を吐き散らし、見世物にされるだけの憂鬱な君との関係に還元されるものが、正しいものを謳いながら、自らを高いところにのぼらせ、見下すことで現れる優越感にひたり、悲観するだけの亡霊どもとの会話を続け、つたない意識は、今に呼び覚まされる苦痛と、普通を願うほどに逸脱し続けるだけの理想論的なものを描く刹那に現れるものに接続される苦悩を与えるだけの偽装を続け、つたない意識は、汚いものを形成し、あたかも汚いものして扱うものに責任転嫁させ、手ほどきを受けるほどに植え付けられるものに真実味は無く、ただくたびれた身体を引きずり、引き取り続ける苦悩を刷新できずに、与えられるだけの義務感から空疎なものをかかげ、勝ち誇るだけに至るものが、いたわりなどを謳い、同情により、自らを正しい者へと変換するための正しさなどが示唆するものが正義として崇められ、そこであてがわれる神は、自らを正しい者として認識することも無く、ただ現れるままに打算し、散々な日常を切り開くための危害を加えるだけの惰性な人間ども、とうながすだけのペシミストが描く終末論的な災難から、散漫な儀式を参画し、生贄を生み出し、汲み取るべき意味は、生贄と共に弔われ苦しみは昇華されるなど、とうながすような作られた神などは、自らを神格化し、何かを騙すことでしか、自らの正しさを認識できぬような愚かさを加速させ、何かに枷を嵌め、世界性を奪うための論理に移行し、行為に比準を与え、水準を元に支配するような予感から、揺動されるだけの心理にうずくまる君の成熟しない誠実さなどは、誰かがあたかも正しいことのように詠じたものを繰り返し自らに植え付けるためのたくらみから、そこで譫妄に至り、洗脳され、応じるだけの心身は、自らの身体と乖離し、理解を得る以前に、何かに推考させられ、水準を用い、自らの落ち度を認識するための落ち込みから、絶えず自らに現れる対立などに律するものなどは、何かに屈辱を与え、正しくあろうとする者が徒党を組み、化育されるだけに至るような放牧から、檻へと収められるだけの心情は吐血を続け、自らがやせ細ったころにすこしの猶予を与えるだけの独善的な手法から、醜態をさらすだけの散漫な形を崇めるだけの理想的で、何かが老いることを目的に何かを阻めるような理性などを保つ秘訣などを謳うだけの欺瞞から、カタルシスに至らずに、ただ片付けられずに、偏るだけの理性とは、純粋な理想には至らずに、偏りを生み出す限りに陰る本質は、真実を謳いながら、自らを騙し、自らを縛り上げ、不自由であることこそよろこぶべき事実さ、と諭す自由な者が示す尺度から、後悔や過ちを生み出すだけの組み込みから、空洞化していく主義は、理想を失い、大義を中心に持たぬから、中庸を保てずに、破綻し、単純で純粋な破壊へと移行し、行為に求められる誠意とは、自らを正しくできずに、何かをとがめるための理想へと変わり、かかげられた純粋な理想などは、理性をそこない獣と化するだけに至るような徒党の中で空疎なものをかかげ、迎合されるだけの理論上のたくらみから、体制を破砕できずに、創造性に欠け、何かに追従することだけが、正しさへと昇華できるのだ、と謳うような空論から生まれる空隙から、空席を埋めるための集まりから、収容されるだけの意味合いに可決されるだけの民主主義的な衆愚が生み出す敵愾心から、体たらくなものだけを仮想し、そこで追従する者だけが、しあわせをつかむのだ、と快楽主義的な遅延から、厭世観を溜め込むだけの怠惰なロマン主義に偏りを示し、傲慢な者へと変化し、そこで変換される善悪だけが懸隔を埋め、用いられるものへと隔たりを生み出すだけの空虚さを用いる仏教的な猶予などは、余裕を持てずに、もてあます意味を超克できずに、己の価値から意味を抹消するためのニヒリズムであり、理想とは、そこで理性を保てずに、ただ破壊されるのを傍観するべきだ、と示される間に貧寒な者へと至らせ、清貧であることを履き違え、何も思わぬことだけが、このわずらわしさから逃れるのだ、というあいまいなプロセスに隔てられるよりも、より獰猛に、よりよいものなどは、そこで身を寄せ合い、自らの不潔さを隠すために誰かをおとしいれるだけであり、誰かを代わりにして、自らの美徳を崇めるために、何かを収めるような退廃的なモジュールを作り上げるだけの出来合の真実などは、奇抜なものを許さずに、ただ自らの感覚だけが正解へと導くという絶対性を持たずに、ただ立場を思い、自らを崇めるためだけに、何かを犠牲にするような正しさを追従し、そこで服従することだけが生きる秘訣であるのだ、とうながすような定立などのいっさいは破棄すべきである。