昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

逆らう者


 鈍色にかがやく傷口を見てよ、と君は問いかけるが、用いられる痛みなどは、所詮は、そこでの痛みを繰り返すための認識に至らせ、徒に繰り返される苦しみを消費するための苦しみを次から次へと生み出すことだけが、ここでの正しさを流用し、ただ反復される苦しみだけが正しさを持ち寄り、正しくあろうと仕向けることで、正しく認識しているかのように仕向ける間に未来は屈折し、現実とは、永久であることを失い、ただその場をさまよい、何かに酔い痴れるだけの幼稚なたくらみから、大義を用いるほどに、体現されるものなどは、ただ短絡的な破壊へと偏るのです、と性悪説が騙る間に端末化する思いは、基礎を壊し、感覚で消費することで創造的な飛躍を遂げ、物事を昇華させることに重点を置かない資本主義的な過ちから逃れ、物事に持ち込まれる作用から逃れ、神々しく捕食され、五月蠅く過ちを騙るだけの利便性を求める現代人的な哀れに埋もれる人混みの中で混濁する素数やら、蘇生されるための真実を復活させるための儀式的な呪詛を続けるだけの情報の犬として吠え散らす間に基礎は空疎な謀計の彼方で論理的にちぐはぐになり、依存的な経過から反映するものなどは、何かを攪拌できずに、そこで滞留し、膠着するほどに凝り固まる意識は、犠牲的な神話から逃れられずにかかげた神こそがすべて、と愛すらも帰巣させることもできずに、何かを信仰するほどに信用を失うのだ、と惰性な域から逃れられずに批判的な配膳を貪婪にむさぼるだけの卑屈な精神から敬神は大発生し、そこで代償を求めるだけの闇夜に引き込まれ、終わらない夜に縫い付けられ、身動きもとれなくなるよりも、高明な光にいざなわれ、うざいほどに貧寒な輩が示すコードに閉め出されるためだけに反することだけを目的に所持する誤りなどは、過ちにも満たず、背負わされた罪などは、そこの域から出られずに、自らがそこでの規約や規律を背負うことで増幅する苦しみが満たす快楽に相似するものを吸い込むほどに悦に浸るような形而上的なものや弁証法からの飛躍をめざさずに、カント的な神を愛撫するだけの日曜日に住まうニヒリストどもの巣窟で緩慢な精神を吸い込むほどに増していく快楽に浸るだけの緩慢な精神などが示す差異などから放たれ、時間も次元も空間も持たずに、そこで食い込むものなどは、過ぎ去るためでも保たれるわけでもなく、ただもたれかかり、誓いなどをたて、自らの独占欲を満たすための売買から買い取られる心情などを補完するための婚姻から根幹に鎖をかけ、そこから身動きをとられなくするような仕組みでは、体現するものなどは、そこでの終わりを示すための汚穢を何度も偽造し、偽善的に示される者が用いる同情により、等差は生まれ、作動する同情は、差異を用いずに、善悪を捏造し、そこでの等位を決めるために自らの「正義」を着込んでは、混濁する意識の中でさまたげるための法を捏造し、消費するための観念から、そこで還元されるための理由からかねあいを求めるほどに普遍性とは偏りを示し、使命や宿命を謳いながら、何かを粛清されるための命令を下し、空疎な自分から抜け出すためにためらわずに他者を攻撃し、正体を明かした途端に手のひらを返すような傍観者の理屈などを信心するほどに、人心などを操作するためのためらいをそこかしこに生み出し、踏み出すものや、踏み外すものを否定することだけが、正しいことのように崇められ、何かを否定することによろこびを感じるだけの独裁的な主観が生み出す支配的な硬度から、乖離していく意識にシステムを埋め込み、潤うためにためらわずに攻撃的であれ!!と荒れ狂う意識は、色彩を失い、四季すらも失い、敷居を用い、勝手に入れなくするような背反から離れるべく、何かに平等を用いずに、平衡すらも損なうからこそ、自由であることなどをめざさずに、自分であることなどを謳わずに、そこでの奔放さに翻弄されることもなく、ただ過ぎ去るから、と嘆くよりも、そこで老いに至るからといって悲観するよりも、ただ感覚的によろこび暴走し続ける先々で対立すらも生み出さずに、ただするりと抜け出すことだけを目的に、ただ快活な動機に支配されるよりも、でたらめであろうとデータに残るような生き方を示すさすらいなどは、流動的ではなく、ただ支配的に操作されている自由の中での自由をかかげるほどに、自由とは自由であることを目的に軋轢を生み出し、戦争に至るだけであるし、何かを許そうとする意識を生み出すほどに、許すということに反する者を生み出すのであるし、そこで物質的なしあわせを否定するよりも、何かを悲観することを辞めることこそが、しあわせなどを求めずに、そこでの目的に没入し、没落しても尚、這い上がるようなフォースをたくわえ、延々と続けることだけが、ここでの正解を超越し、苦しみを超克し、何度もでも自分に行き着き、自らにも反する。