昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

犠牲的な神話を捨てた夜


 とろける語源がシンフォニーをたずさえ、心音がコトコトと鳴る静謐にモラルなどを求めることも無く、ただ住みづらくするのは、人間が用いる哀れみであるのだ、と妥当なものや、惰性にみちびかれるだけの浪費的な観念をたずさえた、機械的な者が示す差異から放たれ、無情に席巻されるだけの建設的な厭世観をたずさえ、何かを引き裂くことを目的としている卑近な例がさまたげるだけの概念などはすぐさま飛び越えるべきであるし、その跳躍力だけが、悪意をとりのぞき、徒労せずに、浪費されるだけの現在に定めすら無く、漠然とした帰路にむすばれる記録や、その場で離れ離れになるだけのなれなれしい情報などに浄土は無く、ただ汚染されるだけの現状だけが、現時点などを謳い、意味をさまたげ、今にたむろする激情的な住処に液状化する関係は、快活さや軽快さを忘れ、敷衍するほどに何かを演じることだけに専念する。捻転していく意識は、合間に色彩を忘れ、関係性の中に制度を持ちこみ、何かを制圧し、抑圧することだけを目的に何かを旋転し続けるほどに、自らにかかる力に屈し、空疎な自分を嘆くようなニヒリズムの中でのいじらしい自分を演じるほどに、ニヒリズムとは、自らに食い込み、自らの脆弱さを掘削し、そこからすべてを腐らせていく。空疎な自分を屠るための規律を用い、何かを征服するための多面からなびくビジネスライクな言葉や、体感するほどに退化し、加算されるほどに対価を求め、対立を続け、軋轢を生み出すだけの支配的な示唆から、操作的な者が示す尺度によぎる制圧的な今朝に飽和しない思いは、ないがしろにされるほどに時代錯誤におちいり、横溢する意味に軽薄なものを突き刺し、些細な出来事に安易な事情を成立させるための諦観を用い、モチーフとされる苦しみへと変換されるものだけを価値として崇めるべきだ、と達する空疎な永遠性に蓄えられる退屈な制度に形成される欲望から支配されることによろこびを見出す羊の群れと、それを正当に整頓するだけの汽笛を鳴らす正義が権力装置を生み出し、自らを正常な者として認識するほどに用いられる過ちに気付かずに、家畜として正常な者を演じるという異常な行為にもとづくセオリーに支配され、現時点で保たれる正常さなどは途端に破綻するものであるし、あらゆる制限を生み出すだけの秩序などは、蓄積するほどに今に屈折し、鬱積していく意味合いに悲観していくだけの関連性に連動していく空しさを食い尽くすための駆逐から、空席を埋めるための生産的に子供を生み出すほどに孤独な子供たちは、意思の奴隷として、ドレスアップされただけに満たない汚い価値を恨み出し、何かを破壊するための劇場の中で、おとなしい子供を演じるほどに大人を恨むのだ、という父権的なまやかしから放たれ、そこでの親子関係などは、何かに還元されるために親子であることを演じているだけに過ぎず、そこでの償いなどを求めるほどに未熟な価値は、今に住みづらいものを措置し、配備されるだけの苦しみに消費されるだけに分別などを用い、侮蔑するだけに至るだけの差別的なレイシズムから冷静さを損ない、何かを恨むことだけが、自らを正義にみちびくのだ、と何かを見くびるほどに自らの首を絞めるようなシステムや思想の中で屠られるだけの自らを傍観するだけの乖離する自己を管理するために監視するだけの社会こそが正常であるなどと独裁的な主観は、主体性を失い、喪失感に悶える意識は、対話を忘れ、愛とは消費的で商業的であるべきだ、とアニマは自らが何かを産み出せぬから、創造的に至るのだ、と惰性な創造性などは、藝術的に至らずに、何かを宿し、枢要なもののように崇拝すべきだ、と神を持ちだした時点で、自らの正しさは、幸福と不幸と善悪の中で対象とするものを探すだけで、何ら正しさにはみちびかれずに、未熟なままに支配される景観の中でジレンマにおちいり、応じる過程は締結せずに、諦観におちいり、感覚を失い、相似するだけの多面に加算されるイデオロギーやあいまいな軋轢の中で発言されるものを正しいものとして認識することに誤りを見出せずに、正しいとされるもののセオリーを背負い、自らを服従させることで嬉嬉としてるような列に並ぶことにより、自らを良い者のように見せるための虚栄や虚飾から放たれ、自らに迫る理不尽な過程に締結していく意識的な終わりにひしめく意味に引き返すよりも、そこから放たれるべく、ベクトルとは、自らの意志だけで生み出す。