昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

すこし、わたしのはなしをしよう。

わたしの、はなしをしよう。

意識する間も無く、今に現れる摂理などを蹴散らしながら、現れるファシズムに対抗し、互いをとがめるだけの理想が、毅然として今に立ち向かう君をおとしいれようと、正しさで揺動し、動機を矛盾させ、侵攻する意識に飲まれ、形式に酔い痴れ、擁護しきれぬ現在に降りしきる雨の重たさ、まる

壊れた問い


 帰るべき場所や、逃げるべき場所を提示すべく、国家や意味を超え、あるいは、語られれだけの自由が重圧を与え、信じたものなどは、裏切られるためや、乗り越えられるために、自由とは存在するのであり、自由との結婚は、今に隷属し苦しみを敷衍させ、あらゆる理由は正義を乗り越え、自由を超越すべく、自由とは、自由として存在する。死の外側に放り投げられた我々は、帰るべき場所を探し、さまよい続け、つまずき、逃げ回る君の儚さこそが、詩的に昇華され、事実としての完全性を生み出し、制度に付着する自己から飛び立ち、あらゆる善悪と調和する。需要と供給を終え、真理をまとい、空間を旅する時間との別れも終え、ここでの役目を果たすだけの義務である死との調和を施し、はじまりとの交わりから、ここでの一体感とは簡易な瞬間にとどまるだけの永遠性へと飛躍するような瞬間との対立を続けることにより、国家や意味を超え、アナーキーに成長していく過程から、枯渇しても尚、順序を捨て、思い思いに耽る今が純然としたものであるべく、すべては思想を持たずに、ここでの調和を含ませた同一化を施す的な言葉をこぼすタオイズムから、流動し続ける意識とは、どこにでも混ざり合うことが可能であり、不可能を持たぬからこそ、自らの意志は制度を持たずに、そこで付着することに増していく猜疑心を乗り越え、ここで孤立する神経から、疎外し続ける先に現れる過程から、転化し続ける先に飛躍よりも、超越のほうが近道である、という誤りに気付かずに、遠さと近さで測る間には、距離が生まれ、今に苦しみで阻めるだけに至るのであり、そこに距離を用いるから、国家を形成し、人間的に苦しむのだ、とレプリカントは語り、かけがえのないものなどは、電脳世界間では、簡単に流行していくウイルスに侵略により、自我などはほとんど無意味なものであるし、同調する意識を露呈するような精神などは、邪魔なものであるし、ここに論難を用い、何かを否定し続ける辺りから、言葉すらも邪魔なものになるのであり、ここでリアリズムを消化し続ける苦しみに耐え抜くことでしか、生きていることも実感できない人間などは、記号化すべきである、とネットワークの中枢で神経を麻痺させ続けるよなバグから、征服されるだけの感情を保とうと必死にもがく人間的な悪あがきをあざ笑うコンピューターウイルスどもが徘徊する深夜に論理は敗退し、ここで哲学的に郵送される真実ですら、最後の疑問を終え、捏造されるだけの真理を真理として受け入れることでしか、自らを認識できないような存在などは、死の影を背負い、義務的に生かされ、放牧され、与えられた餌の感覚でしか、存在を認識できないようなカタルシスを生み出すのが、国家的なシステムの中での価値観の家畜としてしか生きていることを肯定できないように仕向けるようなシステムの虜と化するだけに至るような囮を作り出し、何かを統合することでしか正しいことを正しいものとして認識できないようなものだけが、力として認識され続ける限りに、我々は鍵を失い、そこかしこで迷うだけに至り、逃げることを知らぬから、そこでの苦しみにとどまることだけが、あたかも正しいことのように認識する誤りに気付くべきであるし、そこで逃げることを知らぬから、君は、不安に苛まれ、今に厭うだけの価値を価値として出迎えることでしか、自らを認可できないのであり、そこで同情することだけが、自らを正しい者として世界と統合し、あらゆる原理を損なわずに、ここに現れるしあわせとは、何かと同化することだけであるなどという勘違いを生み出す以前に、誰かに指図される以前に自らが生まれた途端が前後左右であり、生まれた時から時間は進み、生まれた途端に阻むだけの世界は、世界として勝手に入り込んでは、背徳者である、と決め込み、危険であり、悪である、と決め込む正義たる独裁者との対立を生み出し、ここで相続するものなどは、過去からの苦しみをここで繰り返す反復することだけが正しいことのように示唆するような正しさだけを認識することが、唯一の正義であるのだ、という欺瞞から逃げ出すべきである。何かの複製品である定理に基づき、同じようなものを作り出すことに置かれるフラクタルなものなどは存在せずに、微妙な違いに気付かぬ限りは、同じような定理に支配され、理屈を捏ねる者として疎外されるだけに至り、あらゆる正気とは、捏造された真実から、同調することで、平衡を保つように思い込むように作られたものを崇めることにより、自らをリアリズムに仕立て上げ、そこに現れるものしか愛せないように思い込むことだけが、世界であり、正解であり、ここで高潔なものに変わる答えであるのだ、というエリート主義ではなく、自らを強固なものに変えるような超エリートを作り出すべく、意思とは簡単にねじ曲げられずに、自らを正しいと思う限りに自らとは正しくあろうとせずに、何かに加勢することもなければ、そこに現れるものにあらがうことにより、より強力な意志が生まれるというような自らを至上の者へと突き上げるような昇華に恍惚感などもなく、そこには恬淡な意識だけが、浮遊するでもなく、そこに存在するように存在し、そこに現れるままにあるところにとどまるわけでもなく、ここでもなく、どこでもなく、どこにでもいるように仕向けるように仕向けるものこそをひるがえすような者であるべく、すべてはすべであとして有する以前に、私は、ただ私であることだけをよろこぶ。

壊れた問い


 帰るべき場所や、逃げるべき場所を提示すべく、国家や意味を超え、あるいは、語られれだけの自由が重圧を与え、信じたものなどは、裏切られるためや、乗り越えられるために、自由とは存在するのであり、自由との結婚は、今に隷属し苦しみを敷衍させ、あらゆる理由は正義を乗り越え、自由を超越すべく、自由とは、自由として存在する。死の外側に放り投げられた我々は、帰るべき場所を探し、さまよい続け、つまずき、逃げ回る君の儚さこそが、詩的に昇華され、事実としての完全性を生み出し、制度に付着する自己から飛び立ち、あらゆる善悪と調和する。需要と供給を終え、真理をまとい、空間を旅する時間との別れも終え、ここでの役目を果たすだけの義務である死との調和を施し、はじまりとの交わりから、ここでの一体感とは簡易な瞬間にとどまるだけの永遠性へと飛躍するような瞬間との対立を続けることにより、国家や意味を超え、アナーキーに成長していく過程から、枯渇しても尚、順序を捨て、思い思いに耽る今が純然としたものであるべく、すべては思想を持たずに、ここでの調和を含ませた同一化を施す的な言葉をこぼすタオイズムから、流動し続ける意識とは、どこにでも混ざり合うことが可能であり、不可能を持たぬからこそ、自らの意志は制度を持たずに、そこで付着することに増していく猜疑心を乗り越え、ここで孤立する神経から、疎外し続ける先に現れる過程から、転化し続ける先に飛躍よりも、超越のほうが近道である、という誤りに気付かずに、遠さと近さで測る間には、距離が生まれ、今に苦しみで阻めるだけに至るのであり、そこに距離を用いるから、国家を形成し、人間的に苦しむのだ、とレプリカントは語り、かけがえのないものなどは、電脳世界間では、簡単に流行していくウイルスに侵略により、自我などはほとんど無意味なものであるし、同調する意識を露呈するような精神などは、邪魔なものであるし、ここに論難を用い、何かを否定し続ける辺りから、言葉すらも邪魔なものになるのであり、ここでリアリズムを消化し続ける苦しみに耐え抜くことでしか、生きていることも実感できない人間などは、記号化すべきである、とネットワークの中枢で神経を麻痺させ続けるよなバグから、征服されるだけの感情を保とうと必死にもがく人間的な悪あがきをあざ笑うコンピューターウイルスどもが徘徊する深夜に論理は敗退し、ここで哲学的に郵送される真実ですら、最後の疑問を終え、捏造されるだけの真理を真理として受け入れることでしか、自らを認識できないような存在などは、死の影を背負い、義務的に生かされ、放牧され、与えられた餌の感覚でしか、存在を認識できないようなカタルシスを生み出すのが、国家的なシステムの中での価値観の家畜としてしか生きていることを肯定できないように仕向けるようなシステムの虜と化するだけに至るような囮を作り出し、何かを統合することでしか正しいことを正しいものとして認識できないようなものだけが、力として認識され続ける限りに、我々は鍵を失い、そこかしこで迷うだけに至り、逃げることを知らぬから、そこでの苦しみにとどまることだけが、あたかも正しいことのように認識する誤りに気付くべきであるし、そこで逃げることを知らぬから、君は、不安に苛まれ、今に厭うだけの価値を価値として出迎えることでしか、自らを認可できないのであり、そこで同情することだけが、自らを正しい者として世界と統合し、あらゆる原理を損なわずに、ここに現れるしあわせとは、何かと同化することだけであるなどという勘違いを生み出す以前に、誰かに指図される以前に自らが生まれた途端が前後左右であり、生まれた時から時間は進み、生まれた途端に阻むだけの世界は、世界として勝手に入り込んでは、背徳者である、と決め込み、危険であり、悪である、と決め込む正義たる独裁者との対立を生み出し、ここで相続するものなどは、過去からの苦しみをここで繰り返す反復することだけが正しいことのように示唆するような正しさだけを認識することが、唯一の正義であるのだ、という欺瞞から逃げ出すべきである。何かの複製品である定理に基づき、同じようなものを作り出すことに置かれるフラクタルなものなどは存在せずに、微妙な違いに気付かぬ限りは、同じような定理に支配され、理屈を捏ねる者として疎外されるだけに至り、あらゆる正気とは、捏造された真実から、同調することで、平衡を保つように思い込むように作られたものを崇めることにより、自らをリアリズムに仕立て上げ、そこに現れるものしか愛せないように思い込むことだけが、世界であり、正解であり、ここで高潔なものに変わる答えであるのだ、というエリート主義ではなく、自らを強固なものに変えるような超エリートを作り出すべく、意思とは簡単にねじ曲げられずに、自らを正しいと思う限りに自らとは正しくあろうとせずに、何かに加勢することもなければ、そこに現れるものにあらがうことにより、より強力な意志が生まれるというような自らを至上の者へと突き上げるような昇華に恍惚感などもなく、そこには恬淡な意識だけが、浮遊するでもなく、そこに存在するように存在し、そこに現れるままにあるところにとどまるわけでもなく、ここでもなく、どこでもなく、どこにでもいるように仕向けるように仕向けるものこそをひるがえすような者であるべく、すべてはすべであとして有する以前に、私は、ただ私であることだけをよろこぶ。

愛と名付けられる以前のもの


 言葉を持たぬ二人は、会話の変わりに意識の互換を繰り返し、書き換えられる記憶から、臆することなく、住まう意識に果てるだけの私情を捨て去り、理論を超えて、ガイドすら不必要なのが愛であるし、そこで普遍的に混じる瞬間だけが、愛であると宣言する間に埋められぬものすらなく、埋めようとするほどに、邪悪なものが生まれ、関係を遠ざけるだけに至るし、ここで類似し、痛みに変わるだけの儚さをちりばめ、集約される思いが二人一緒だね、と席巻していく意識に軋轢すらも生まれず、ここにはびこる愛だけが、瞬間を悟り、ここで知り得るものなどは、ほとんどの意味を持たずに、すれ違っても、またいつか出会うであろうし、ここで用いられるものにさえぎられるほど簡単なものではないよね、と笑う君の本質だけが、現象や現実をぬりかえ、真理すらもいらず、ここに構築され、意味として今を移ろうだけの感情が、様々な思惑を超え、現時点から遠ざかり、ここに用いられる時間すら、今に対処しきれずに、時間としての意味を果たせずに、二人の外観を傷つけることすら不可能であるし、ここに現れる永遠性は、すべてと対立を続け、そこに用いられる死すらも瞬間的な痛みから飛び立ち、たちまちに現れる痛みもぬぐわれるものだし、ここでもぬけの殻になっても、簡単な身体が交換されるだけの愛では満たされないような思いだけが、ここに永遠性を築くのである、と鮮明で聡明な意識だけが、意味を掴み、今に果たす義務を超越し、今に互換されるものだけが、正しさをも超越し、今に演じることをやめ、ないがしろにした主観からあふれる仁徳のようなものすら不潔に感ずるような愛だけが、本質が何かを知り、ここであらわされるものなどは、現れる限りに偶像や虚偽に変わるようなまがい物であるし、ほとんどが意思の道化であるのだから、二人の間に放たれる空気感のようなものだけが、延々と邂逅し続け、そこで出会う限りに終わる瞬間から、また何度も出会いと別れを繰り返し、同じ時を過ごすよりも、その時を追いかけるほどに一貫性すら失い、時間に追われるだけに終わり、ここでの終わりとは、今との妨げとの終わりを含めたメタファーに過ぎず、ここで過ぎ去るものに推理すら不必要だし、誰かが出し抜けた分、ここに現れる空白を埋めようと忙しく生きるよりも、今を厭い、自らの苦しみを際限無く綴るだけの過去に納期される不純な意識がベターなものとして扱われる以前に、ここに固執することなく、時間とは、ここに現れを作るようで、妨げを作るだけに至るだけで、本質すらも見抜けずに、ここで見間違えるだけに至るような痛みから、絶えず行進を続け、意識を超過し、そこに置いて行かれるだけの自分を傍観するような苦しみをも楽しむような瞬間から死を乗り越えるまでの軌跡から、ここで役柄を終え、演じることをやめた途端に現れるものが本物であるのだ、という幻想を乗り越え、ここで終える物語がガタガタと崩れ去る余韻にひしめく流動性や、君の躍動感から、君が信じたものが飛来し、嫌いなものすら好きになるような瞬間から、主体性とは、誰かの簡易なものとして扱われる以前に、自らを確固としたものとして認識し続けるための大切な主体であっても、所詮は、君といれば共感を求めるべく、共通項などを謳いながら、たゆむ現在におとずれる原理に折れ曲がるだけの主体が世界と対等さを求める先に平等さとは死に絶えるものであるし、世界とは、世界を認識させるための名ばかりのものでしかなく、君が産まれた途端にひろがったものは、君であるし、そこに世界などはなく、君を含めたすべてであるし、そこで雇用されるなどとは思いもせずに、ここで設置されるだけに義務などを生み出し、ここで狭まるだけの価値を背負わされ、そこに些細な苦しみも厭わずに、ただ支払うための義務に追われるなどとは思いもせずに産まれた輝きから、加算されるだけの意味にあらがう二人の世界すらもすぐさまねじ曲げられるが、二人ならば修復できるだろうし、ここで祝福を用いずとも、今にしあわせすらも乗り越え、ここで固執するだけに終えるような物事からの飛躍を遂げ、今にとがめられる以前に、ここで鮮明なものを生み出し、高揚感をたずさえ、いつも浮遊しているような感覚で雲の間をすり抜け、疲れも知らずに、そこかしこに産まれるものを通過し、自らの力を蓄え、その位置からいつでも飛べる準備を蓄え、その場で降りしきる雨に濡れても負けないような君の情熱がひしひしと伝わり、君との出会いをまさぐるような夜が敷衍し、やがて、静謐は預言を蓄え、季節に封じられる感情を解き放つほどの愛が補足するものだけが、自らを兌換し、絶えず産まれるものだけが、愛と呼ばれるべく、そこで愛と名付けられたものは捨て去るの、だ。

すこし、わたしのはなしをしよう。

わたしの、はなしをしよう。

まがい物の世界が出来合のもので捏造し続け、自らを正しいもののようにかかげる間に示されるものなどから閉め出され、惰性に生み出されるものが、今を踏み台にし、いくばくかの可能性すら食い散らかすだけにいたるような体系から抜け出すべくあらがう、まる

すこし、わたしのはなしをしよう。

わたしの、はなしをしよう。

わたしの考えとは、幼少期から一貫し、何かが示す権力などは、空疎なものを保つためのカラクリを繰り返し動かすための幼稚な策略であるし、何かを統治することで、満足にいたるような幼稚な者が示す差異や、答えなどに同調すらもせずに、ここで設置される義務などは果たすわけもなく、ただ諦観にいたるだけの悲観をかかげるほどに、かけがえのないものから懸け離れていく、まる

歩く

歩くとすべてが循環し、
純化されていく意思が、
受難などを捨て去り、
与えられた苦しみなどは、
しょせんは、そこで感じるだけに
痛むだけだし、
そこに用いられる痛みすら、
何かに与えられた義務に過ぎない。