昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

迫る本質


 祝福を告げるドラムロールが迫る。秩序を持たぬわたしは、不当なものにそまらず、備わる影から逃げだし、ただ孤独なままに混ざり合う瞬間に理屈すら要らず、いたわり、閉じた瞬間に焦げ付く衝動や、王道を進む限りに、怪訝な本質が促す毒された感情が、起源を謳い、供花を備え、怯えた感情が、環境に責任転嫁し、自らを滅ぼすだけの関係に制度を生み出し、犠牲を謳い、保たれる均衡などが、犬儒主義的なプロパガンダが迫り、何もかもを捨てて、いまいちど、裸で生活すべきなのだ、と惰性な意識を飼い慣らすだけに、ふんいきに転じる意識的な汚穢が枯渇していく主観に現れる制度が、苦しみを用い、モチーフとされる原理にかこわれ、固執するだけに執念は加速し、狡猾な者ほど、世紀的な論理を建て付け、権威的に処置するだけに至るような手術から、錯綜する真理は、原理的なものにとどまり、理性を失い、損なわれるだけの意思的な何かを代償に、過大視し続けるほどに、存在とは、薄くなり、今に悲観し続けるだけに至り、訝る先に苛む記憶に従事する苦しみや、理性を損ない、そこに、行いを長じさせ、時間に囚われ、猥雑な観念に飲まれ、惰性で生きるだけに浸る現実や、現存するほどに補填される苦しみや、空虚さを稼働させるだけの機械的なまやかしなどを謳うほどに、今に老いていく仕組みから、指導者を必要とするのが、人間的な哀れであり、現れに処されるものに処遇などを求めるほどに、元々のものに支配され、今に陥るだけに至る。過激な思想を抱え、革命とは、すでに無形な者や、無記名な者が毎日執り行う。ただ体制にこびへつらわずに、壊すも許すも同様に示すような革命の硬度は、善悪で変わるが、勝手気ままに作用するほどに、左右の偏りは消え去り、ただ破壊に至るようなアナーキーな行動へと変化し、変節を謳い、同調に支配されずに、芝居し続けるだけの現実から超越し、ただ空間に吐き出される空想的な模様や、妄想を続ける先に現れる本質すらも超えるような企みから、卓越していくのが、何も無い仮想空間から吐き出される言葉がもよおす善悪や、成否をも超えるような何かであるし、ここに現れるものだけが、善悪を有さず、脅迫し、迫害させ、強請り、高め、互いをとがめ、いびつなままであり、異物感を与え、際限無く壊すことだけに専念するのが、ネットワークのほころびであるし、誇りでもあるのであり、そこに問う悪などは、頭角を現さずに、ただ整序され、正常さを謳うだけに用いられるモチーフとして扱われる普遍的な変節から、平均なものだけが、均等さを用い、何かを体制に売り、退嬰的な者として、物質主義的なものに支配され、用いられる考えなどは、一銭にもならぬのだ、と強調する資本主義的なまやかしから、惑わされる主観に現れる猜疑心だけが、愛国心などを謳い、刻々と迫る限界点から、目の前に現れるものに矜恃を保てずに、すぐさま重圧に屈し、折れるだけに至るような精神が堕落し、滑落していく先に死地などを生み出し、自分を守るためだけに、死の近くに自分を添える。その添えられたものなどは、誰も食わずに、自分すらも見下し、導かれる不安に苛まれ、怯えるだけに至るような恐怖へと嚮導され、競合し続ける先に現れる不安だけに追われ、今に規則的な汚穢に迫られ、何が正義か、と促すだけの信仰的な犠牲心から、正義は、各地で偽装され、技巧をこらし、自らを騙すものだけが、唯一に正義を騙り、名乗るほどに、用いられる権力を抱え、今に暴走し、ちぐはぐな正義は、扱う者により、その尺度を変え、誰もを裁くことだけに専念し、自らだけが、唯一の正義である、と偏った思考は、思議を行わず、現れる行いだけで判断し、自分で判決を加え、正義の鉄槌をくらわす。与えられる罪だけに飼い慣らされる正義として、あてがわれる悪を愛して止まず、途端に現れる不正などを正す限りに陰る本質は、懐疑的に至り、邪推する限りに用いられた正義とは、いちばんの偏りを示し、用いられた悪よりも、持たされた正義のほうが、いちばんの悪に成り代わり、対象を問わずに、現れるものすべてを裁くだけに至り、境目も持たずに、あてがわれる世界を守るという使命だけに追われ、誰もが汚穢を抱え、誰もが終わりを率いていることも忘れ、自らだけが正しいのだ、と勘違いしていることに気付かずに、ただ現れるものを途端に力だけで抑え付けることのよろこびが、サディズムを加速させ、自らが扱う力だけが、正義をも超えるものだ、という優越感から、逸脱していく精神は、神経にとがめられずに、現れる死をも越える強制力を使い、絶対的なものとして、現在に君臨する。