昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

ゆるがないもの


 どこかに影響を及ぼすようなちいさな反響が蓄積し、大きな影響を波及しては、生産的な幼稚さがはびこるバビロンや、慢性化していく痛みを響き渡らせるような思いがつみあげていく、可能性をもつきぬけては、可能世界を謳うほどに、ここで補正され、制される間を健気に歯向いながら、はびこる意味に位置付けられた思いが、過去に与えた影響を、現在に与えられては、打ち付けられた痛みを継続するかのように、感じるようなものなどは、過去から継続している痛みではなく、ただ、今に継続している痛みであり、過去は影響を及ぼすのではなく、思い返すたびに、現実味を及ぼすだけで、今に認識するたびに、過去にあったものが、あたかも今に影響を与えるかのように思い込んでは、今に痛みを継続するだけであり、今に現れた痛みとは、現在が生み出した痛みでしかなく、過去とは、捨てるよりも、思うたびに継続しているだけに満たず、過去が及ぼしたものなどは、今をすこし、汚しただけであり、そのような汚れも、今を正せば、今に確かなものに変わり、正そうとすれば、すでに、汚れたものに変わり、関わりが示すものなどに、左右される以前に、自らが生み出す影響だけが、今を決め付けるだけに過ぎず、つくづくに置いていかれたものは、老いを体感するほどに、対価がどうと、同等なものや、均等や平等を用いては、自由を謳い、何かを決定的にゆがませていく。そこに居続けるほどに苦しみは往復し、折り返す思いは、秩序を保てずに自壊していくだけに満たず、落ちていく先々で対立を続ける風景は、自らのみすぼらしさを悲しむほどに、誰かの目を気にしては、自分に裁きを加えることを、定式のものとして崇めるほどに増していく恥じらいにひたるほどに現れる快楽に従い、しいたげられている自分を傍観する傍観者として、現れる意味に正しさを求めるだけの奴隷として、現れるものを正しく認識しているかのように誤認していくほどに、正しさとは麻痺していき、現れるものを正しく認識しているかのように思わせられているだけの者が示すものこそ、正しさの指標になるのだ、という哀れさから抜け出せずに、自らを疎外させぬように同化していくだけの普遍性とは、普遍的なものから抜け出せない限り、普遍的ではないのにもかかわらず、関わりを深めるほどに、対価を求め、退化していくだけに満たないシーンに断続していく不快感から抜け出せず、自らを孤立させては、自らの居場所などを求め、何かとの違いを埋められるわけもないのに、何かを探し、さまようだけに至る精神は、至らぬものを愛せずに居続け、否定するほどに疲憊する自分との距離を埋められず、乖離していく自己との対立を続け、退嬰的に至る自分との対比を続け、対価を求めるほどに埋められぬ自分との距離に生まれる善悪が謳う衝動的な正義が打ち出す犠牲の生贄として、あらゆる原理に帰巣するだけの答えの奴隷として、何かを祝福するほどに複製されるだけの品位が生み出した歴史と伝統を破壊するためのバンダリズムをかかえ、悔悟をため込むだけの神を崇める君の理想が、理性すらもそこない、ただ自らの正しさを守るための闘争などに統合されるほどに、人間性とは、人間であることの愚かさを捨て、ただはびこる悪意の孤独な子供として、現実性を捨て、幻想的な変装を終え、どこかで想像できるものとは、どこか違う次元で定立し、定理として迎え入れられ、与え合う影響とは、同じ影響の中で同じようなものを演じながら、無限に違う場面を継続させ、無限に反復し、反響し合う場面は、違うところで互いを遅配させ、同じように継続していく現在に軽薄な契約を続けながら、つたない意識に確かな認識を与えるようで、どこか違う意識では、位置的なまやかしに苦しみ、空白を埋めるためだけに、違う意思が執り行ったものを、確かなもののように暗示させるような擦れを埋めるためだけの誤認こそ、本当は真実であったのだ、というような認識こそが、誤認であったとしても、そこで有ったかのように思ったものすらも、思い違いであるかのように思わせるような仕組み中で出会いと別れを続け、そこで往復するものなどは、どれも複製されたものであるし、そこで行われたものすら、どこかで起こったものを往復させ、複製しているだけに満たない未来であるし、汚いものであるし、あらゆる原理に汚された形骸であるし、開眼しても尚、卑俗なものを軽薄に継続させただけに満たないものを、確かなもののように思うほどに、世界とは足枷に変わる。