昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

くたびれた花

ゲルニカのような幼稚園で徹底した理論を確立され、健気な顔して悪魔めいた自我が季節を封緘し、瞬く間にいたたまれなくなった私たちは瞬間的に狩られる運命なのか、とただただ逃げ回ることだけに必死で、答えなどに苦しめられて、延々と自身の中を回り続けるのか、と換算されるための日々は理念を持たず、ただ捻出されるための欲とすれ違い、散漫にむさぼる季節と対面して、いつか閉じ込めた思いをしたためた手紙により自らを克己させる。馴染むことも、和むこともなく、それはずっと遠くでたゆたい、ゆらぐ精神はどこに行き着くわけでもなく、息継ぎする必要もなく、どこか自らにも他人行儀で、白々しさを感じる自己の奥底では、自我すらも潰え、時間すらも持たずに、もたつく身体が無駄に消費する忌々しい現実などに期待すらしないで、四苦八苦するよりも、いつまでもとっつきにくく、憎たらしく馬鹿馬鹿しい今を消費的に生きるよりも、商品価値を謳い、あたかも生きているかのように示すあいだに、事実すらも不透明になり、複雑にかさばるだけのエゴを迎合して、誰かを責め立てるよりも、せめぎ合う今に余韻は相似するものにより、偽装され、そこで交換され、与えられたものが支配的に攻め入り、今に制限を生み出す。誰かとたしなむよりも、ひとりで考えを自らに分かち、相対する世界との調和すら求めないし、誰かが構うから、私は生きづらくなるのか、と加算されるもののどれもが意識的な奴隷にするために、形式的なものを孕ませ、今を阻むために装置的なものを供給し、窮屈にしてしまうだけである。そのようなものから放たれて、私はひとり、自らの意思で踊り明かす。価値なんかはわかりやすくなればなるほど、クソになるし、あらゆる事柄は与えられた義務により動かされ、有象無象の中でもぞもぞともがき、自らが拝むものに無我夢中になり、がむしゃらに求める先には、自らを指図するための快楽が利己的に発信する観念的なものにより、自らのメモリーを破壊するための過去というバグを与え、保つべき現在云々と、過去を引き合いに出しては、なにかを責めることでしか、存在を確かめることもできないような認識に締め付けられることなく、ことごとくの煩わしさを破棄し、画期的に生きるために、勝手気ままに踊り続ける。