昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

愚直

身体に書いた君への手紙、権力によってたかって蝕まれた身体、憎しみがつまった風船がうかぶ、ただ幸せなフリをする国の中で、ふしぎなものを見つけては、怠惰な優しさが敷衍し、不運なんかをなぎ倒しては、絶え間ない思いが引き出すエモーショナルなものが面影をひるがえしては、圧縮される思いがかけがえのないものを引き取り、戦いで傷が絶えない君の隣で肥大化する悲哀なんかがカタルシスに至るまでの距離には、一円もお金がかからずに、お金なんていらなくても、へらへら笑い飛ばしながら、ナショナリズムをうながす歌が流れる世間体のようなものに塞ぎ込むだけのコミュニティに帰属なんてしたくもないし、無くしたものは、無くしたままに、このむき出しの思いが歯向かうほどに、破滅に追いやられもするけど、すがるほどに、つたない連中が支配的な奴らがうながす適齢期の味方をするし、災いが降り続くし、つくづくでは、腐敗した神話によって、私たちの生活は選別されているし、徒らな消費によって、正気を失ってばかりいるし、まかり通るものなんて、誰かの都合によって簡単にねじ曲げられ、姿を段々と変化させるしで、うとましくかさばる権威なんてものが、物事に軋轢を生み出して、今に踏み台にされる君が戦意を失い、膝から崩れ落ち、諦め嘆いていても、誰かがそっと手を差し伸べるような残酷さに打ち砕かれる前に、己が力で、すべてを統べるような強靭さを与えるような希望すらも超越して、ちょうど私も疲れていたところだ、とお互い孤独ではあるが、この絶え間ない喜びを波及させ、高らかに笑いながら、被弾しても尚、この悲惨な現状は治るためにあるし、あてがわれた罪に加担し、誰かを責め騒ぎ立てるよりは健康ではあるし、健全なものがないからといって、健全であろうなどと意地を張るよりも、意地悪に感じるのは、私次第であるし、時代や誰かに責任転嫁するよりも、すべてを統べるために、私がすべてを作り直し、新たな時代を生むのだよ、と。

高尚な症状

どうやって飛べているのかも分からない片翼のモンシロチョウ、モンシロチョウからすれば、飛ぶ原理などに囚われず、自らの力で飛んでいるから、飛ぶことに理由すらいらずに、飛ぶということに疑念すらない。考える蝶たる私は、どこかに止まることすら忘れて飛び回る。いびつなネットワークの中毒者たちは、中性子星の中で自らが電磁波の矢や、圧縮される星の内部では、永劫よりも深いものに吸い込まれ、どこでもない場所で冷凍されたり、蒸発したりする自分をなんども、なんどでも繰り返し傍観する。考えるとは、ここまで大幅な逸脱を反復することにより、永遠をも乗り越える。考えるとは超越に至るためにある。シュールレアリズムの機械兵たるダリが描く細い蜘蛛のような足、磔にされた意識の炉心部にたらされる高熱にうなされた子供たちの涎、唾液の川を人の皮で出来たカヌーを漕ぐダリの夢の最深部、あるいはもともとある性的な欲望の彼方から溢れ出るリビドーと涙腺をつなげ、終わらぬよろこびを吐瀉する大きな口を創造するために生み出された彼の手は、まるでタランチュラのようであった、と語るノラの声が響く鼓膜の内側に住まう自我との対立を続けるために、この世界という病にとどまる。蝿の王が仕切るストリート、猿たち悪事が露見し、散漫な儀式を続けるカジノの卑弥呼が祈るあいだに溜まる人々の怒りが理不尽にぶつけられるほどに成長を続ける権力。制限を持たぬ人類の恨み節により建つモノリス、倫理観を感傷的に弾き鳴らすギターの音が天体を破壊するころ、時代的な井蛙者が社会的な正義や犠牲を謳うほどに、世界とは大勢のために腐り狂うのではなく、傲慢な個人が謳うことに扇動された君がすべてを狂わすような思想ならば、捨てるべきであるし、誰かに毒されたような思想で思考停止に至るだけの忌々しい欠如を埋めるための闘争などに参加するほど、人は獣になり、愚かさに気付かずに、煽られるままに行動をすることにだけ、安心感をおぼえる。絶えず迫る災難の跡、憤怒に溺れる若気の至り的な痛みに絶えず侵攻してくる国家的なまやかしと、煽る普遍性の不衛生さにおびえる潔癖で、完全主義的な君の威光により狩られる真実をも潰えさせるために遮られる幼稚な誤り、倒錯する思いが錯雑とした観念を食べ尽くし、すべてが忘我に帰するころには、言葉は過ちを踏み台にして、自画自賛に浸りながら、悲観的な観点が生み出す絶え間ない物事にリンクして、この命に契約や継続なんかをうそぶくあいだに、君たちは敗残するだろうし、私は死に絶えるだろうが、それがどうした、と産声をあげる子供たちのよろこびが波及する。

憎しみが迫る島

君たちは目が円やドルになってしまい、誰に習ったかは知らない価値観を押し付け、我が物顔で一般常識を振り回し、自分の都合が悪くなれば、それは個性だから、とうそぶく。私はと言えば、秋になればキラキラにかがやく銀杏の宝石を指輪がわりにして、君との嘘の結婚という契約にいそしみ、春になれば、桜の花びらを頭にちりばめ、ピンクになった道理を孕んで、蝕む冬を乗り越えた、と豊かに実る思想すら捨て去り、自由におどるのであるし、自分にすら従順ではないからこそ、自由などに囚われずに、ずっと気ままに夏の太陽を捕食して、ねたましいとか、なやましいとかを飛び越えて、眠り舐る。どこかでは、牧歌的な死が世界を間引きして、全体主義に陥ったハードコアな国家でなけなしの身体を貶し合いながら、相対するほどに、愛などは幻想になり、猜疑心は深まり、隣人恐怖に陥り、互いを傷つけ、破壊するためのデカダンスがバンダリズムを加速させ、快楽的に殴打される人々が巣食うネットワークの中では、正しさなどはそこなわれ、自分が正しいと思えば思うほど、歪んだ正しさが世界を覆い尽くす。やましいたましいを浄化するための感受性が受精し続ける物語が敷衍し、延々と愛を波及させる。あらゆる悲劇の根源は、粉っぽく甘酸っぱい面影から健気なフリしてやって来るものなのか、とここで消費的な私たちは、猥雑なものに支配され、些細なことでいさかいを生み、見境もなく、誰彼構わず傷つける。誰かに何かをされたからといって、その誰かにやり返しているようでは、なんの解決にも至らずに、快活なものすら見失って、ないがしろにした思いが散漫になって、見合わぬものや、似合わぬものに囲われ、なにかしあわせそうな演技を続けるこの命も、すぐさま安く仕入れられ、安くで取引され、簡単に消費されていく、という幻想から抜け出せないかぎりは、物事の本質は見抜けないのであり、このような仕組みの裏には、自らを正当化するために価値観を刷り込み、安易な闘争へと没入させるための、意味をひけらかし、簡単に消費させるために、今に制限を生み、思想を植え込まれ、悪趣味な理想により、利用されるだけに終える、というものにすらも利用されないために、より良いものを謳うものなどに引き込まれずに、うとましく絡まる意味にすがるよりも、つたない意思に拉致監禁される前に、喚起されるものに左右されないために、まどわされる前に今を書き換え更新し続ける。

偏頭痛

変な色をした夜、みどり色のカミナリが地面を焦がし、ネガティブな君の理想を破滅に追いやる。制限もなくあふれる犠牲者の数、カスタムされた命の波数、乱立する正義が、支配的にこの終わった結末をぱくぱくと美味しそうに頬張る後には、欠陥的な物事を粗末に扱い、文言を漁る退廃的なモジュールが斡旋する道理がヒステリックな大衆に迎合して、モラルがどうとか、とせめぎ合うあたりには、得体の知れないものがうごめき、右往左往とするほどに、魯鈍なものが謳う論難や、君の気を引こうとするために曲解しては、さまざまな思惑が噛み合わないままに、噛み付くだけの人々の幼稚な領地で引き摺られる思いが横暴なままに、卑屈になるあいまに偽装される真実に定めすらなく、すがるほどに狩られる私たちの身体の側では、チグハグな思いがラグを生み出し、場末でのロマンスが幼いキスを繰り返しでは、使命感をシネマティックに書き換え、あたかも素敵に快活に解決するあいだにすがるだけのシステマチックな君の慢性的な麻疹による山々を越えて、短絡的な悪意がおよぼすハーモニーにより願いすらも潰え、つたないものに帰巣する遺伝子的な記憶のあいまいさにほどこされるホロコーストや、トーストの焼けた匂いや、焼けただれた肌や、憐憫すらもとどかない、どこか懐かしい灰色のコンクリートの囲いで、鮨詰めにされている私たちの最後の声すらとどかずに、十三階段をのぼり、縄に手をかけ、命乞いするすきまからも現れる希望を歌い続け、ついばむ先々では、最たる意味すら喪失し、再会することすらなく、ことごとくに座り込み、答えもなく虚空をながめては、ことごとくに衰亡し、ベラベラとうそぶくあいだには、愛したものすらあいまいなままに消失し、証拠すらも残さずに、能動的に消え去り、期待を孕む前に、気配を消し、攪拌されるだけの世界の概念をつきぬけ、災いを謳うだけのまやかしと対峙する。

誰もが同じ過ちを紡ぐ

あらがうほどにすべる主観にすがるだけのあんあらも薄気味悪いねん、と語るゴリラみたいにドラミングしてるオバハン連中、声だけはうるさいし、意思には悲しい色しかあれへんし、マスクしているほどに増していく悩みごとが、今をしいたげよるし、ジョーイラモーンみたいなオッサンが酒飲んで叫んどるし、猫に威嚇されて泣く子供の声がサイレンみたいやし、痩せた家具が今にも崩れそうやし、と忙しい内と外が混ざり合って、憎しみ合いながら、この世界というものを形成してるわけで、そっぽ向いて傷つく我が身を抱き抱えながら、なあなあにうそぶく果てには、いたいけなもんも体系的なもんに攻め入られて、我を失って、権力に加担するんかいなって、なじるよりも速く行き過ぎる果てには、境目なんかあらへんし、あらゆる災難なんてもんは、誰かが作った代物であるから、そんなん汁物かなんかに変えて、美味しく啜ったら良い話やから、揶揄せんと、やじるしなんか無視して、無機質な世界が謳う正当性なんか飾りみたいなもんやから、豪快に切り刻む。三つ目の鳥が睨みつける、ただ青いだけの空、人々のパーソナルスペースはどんどん広がって、感染せんように、人と人との距離は近いようで、ありえんほど遠いとか、なんか見たような映画の題名みたいなセンテンスが頭上を徘徊してるし、煌々と照らされたネオンなんかが、ビカビカとすればするほどに、この精神いうもんは疲れたりして廃れるし、誰もが下向いて帰る暗い帰り道を照らすにしては、あまりにも下品なあかりやなとか、照らすことには、下品も上品もあらへんし、そこであらがうほどに、政治的なメッセージなんかに毒されて、偏った思想が理想すらも利用して、誰かの考えを書き換えるための洗脳なんかが、大々的に行われているCMの隙間、たんたんとエクソダスするためにテクノロジーに反して、ロジカルなダンス踊るためにレイブなんかに参加して、サイケデリックな音や、同じビートを反復させることにより、提唱されてる死に至る病をとびこえて、実存主義的な甘やかしによって、この母たる宇宙の中では、この宇宙を親として捉えるならば、この地球たる家ん中では、誰もがごとおじであるし、こどおばであるからして、誰もが何かの世話になり、迷惑かけてんやから、誰かを否定したり批判したりするほどに、あたかも解消されているかのように感じられるストレスの奴隷になるだけやのに、なんかすがすがしいほどにカスやクズがうごめく地中では、誰もが正義を騙り、誰かを出し抜くための偽善や、出来レースに参加しては、適齢期やなんや言うて、手切金欲しさに、誰かを騙すんに必死なん見たないから、目閉じて、眠ることの没入感を俯瞰で見ては、このバーチャルなもんに感じられる離人症的なまやかしをも超越するための哲学を突き詰めるんです。

ただいま

観点も潰えた彼女の朝、しいたげられた君の孤独な部屋では、心音がドクドクとくどく響いては、完成された結末を煽る連中が支配するちいさな世界にとどまり、ことごとくの末尾に降る鉄の雨に打たれて、酸性の思いが精査する意味に結合していく終焉を築くネガティブな鳥たちが、トタン屋根の錆びた屋根で怠惰にもとづく全てに毒付いては、体たらくな現状がフラクタルになるために分泌している永劫に欠けた青春を混ぜてシェイカーをふるバーテンダーの手をながめている自分を俯瞰で見ているような離人症的な敵愾心により、真意は刃に変わり、切り裂かれた精神に理解などは不潔な代物である、と宣言するアンナンアルトーの隣では、理性とは、とがめられる他者から借りただけの物である、と物質主義的な考えを迎合するほどにアイロニカルなもので構築された理論を押し付けるための我が考えに干渉する物事が、悲哀などを持ち出し、今を拘束するためのあいまいな地層学により判断された歴史の過ちや、君の血や、制するほどに現れる勘違いに報復される老いた身体や幼い身体が、がんじがらめになって、なごむことすらできなくなって、なじられるままに退屈な理想を制限なく吐き出す無神経な口に攻め入られて、成否にもとづくエゴを吐き出すフロイトの鼻の穴から虹の架け橋が生まれて、それを渡る精神科医たちがファルス的な敵意を踏み台にして、利便性を求められた父親のつつがない悲しみとは、使い捨てにされ、子を産み出す母親が必要なだけであって、私たち父親とは、ただ機械的生殖器をつかさどるだけの権力にすがるだけのめめしい機械なのである、などとうながす精神分析的なものを吐瀉する酔いから覚めた途端に、手当たり次第に破壊するよろこびに震えるバンダリズムにより解放された意思がパンデミックし、この終わらない苦しみを波及させ、誰もが今は悲しむべきだ、などという幻想に取り憑かれていく。この簡単な還元方法にだまされないために、情報という汚物を洗い流し、綺麗な考えで冷酷に時代を叩き割る拳を育てる。あらゆる決意をゆるがすほどの画期的な考えだけが、この宦官どもがうごめく退屈な規律を破壊し、新たな意味を次々と生み出すために、この意思を費やす。

圧縮される詩的な後先

固定された身体が枯渇するまでの距離、その存在のあやふやさに値するものなんて大したこともないし、存在の中で引き換えられ、あたかも正しいもののようにその場で肯定されるものなどが謳う権利なんてものに引き摺られては、悲観すればするほどに卑屈になるだけの連中が示唆する連帯感などに食い込む後先の密度、複雑な所以に加速していく動機に排除され、自由を不吉に謳う怠惰な奴らに遭遇して、偶像崇拝や、商品化されるだけの彼らや彼女たちに帰属する運命が俗物により支配され、芝居じみた日々に歪に作用するものが、願いを踏み躙りながら、優しすぎる故に簡単に傷つけてしまう、という誤りにより左右される物事にたむろする人々の屈折し、還元されるためのプロセスが謳うプロレタリア的なまやかしにより、幼稚な理論が錯綜し、サクセスするために朗誦するものに擦り寄り、金言などというまやかしや、自閉的なプログラムに利用され、伴侶などは、理解などに至らずに、過度な苦しみを互いに生み出すために、互いに寄生するための権限などで束縛するための契約に移行し、法に絡め取られ、途端に蔑むだけの堕落した理由がフラクタルになるまでぶつかり合い、愛するが故に過剰なナショナリズムを誰彼構わずにすり込みながら、政治的なものを恥として、嫌な事柄のように感じるための操作を続け、つたないギミックにより、普遍性とは、あたかも清潔なものであり、生活感を正すための、正義により犠牲になる私たちの主義や理想がリセットされ、そこかしこで曖昧になる理論が恒常的な苦しみを利用し、理性を奪いながら、制限を生み出し、奪い合うことだけに専念するための道徳が生み出す軋轢に見合うものだけが、あたかも正しいものを演じ、今を支配し続けていく。迎合される偶然に司る罪や幻の角度、理性が焦熱して、配慮されるために管理される時代に狩られるための日々に絡まる忌々しい現実に雇用されるために騙す自分、そのようなものを正しいとする時代なんてものは存在すらしないのであるからして、そこで正しいとされていることごとくを翻し、生きやすく容易い今を形成し、誰もが健やかに超越できるような観念を育てるための訓育を勧める。