昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

最高の笑顔で


 解放感を強請るだけの価値の家畜として、退廃するほどに、増していく痛みが脳内を循環し、陰る本質は、失意を溜め込み、自らの苦しみを膨張させる。即座に充填される時間に押し出され、陥らされるだけに至るような痛みに緩慢に作用をほどこされ、そこで迎撃される君の自由な跳躍の後に残る悲しみを引きずり、悲観するよりも、関するままに愛することに、言葉はいらず、行動すらいらず、反響するする微かな重なりから、誓いを立てずに、蓄積される苦悩にチグハグになりながら、沈殿する意識を漁るだけの過程は、物事に経過を求め、そこで与えられる力だけが、正しさなどを謳い、支配するために今を締め付ける記憶に教唆されるものを取り外し、リリカルに消費される連動的な余韻から記録を歯止め無く吐き出すだけの形式に結節されるものが、次々に同じようなリズムで未熟な思いを回転され、延々と反復されることが恒久的に捉えられ、呼吸すらも忘れ、そこで呆然と立ち尽くす意識的な孤独は、自らの孤立感に羽交い締めにされ、自己破壊へと至るだけの結末をたどる前に連綿たるものなどは、今に接続されるほどに自らの欺瞞に絶えかねずに体系化されるほどに経過していく正しさに犠牲を支払うだけの自らを拘束し続ける先々で確保される意識は捕獲の対象とされ、比較されるだけの獲物として、或いは儀式的な生贄として意識的なミメシスの彼方で名前を与えられ、淵源に潜む悪意を補足し続けるだけの機関の中で発生する悪を充填し続けるべきだ、と正義に教唆され続けるだけの教育から離れられずに、正しいとされるものを怪しむこともできずに、そこから離れられずに継いできたものだけが、正しいものを語る権利を与えられ、用いる者だけが、正しいのだ、という資本主義的な幻想から浪費されるだけの価値にカタストロフを投げかけるだけのスローガンをかかげる快楽的な破壊に純粋に従うサイコパスどもの群れを形成しながら、しなびた夢の中で補足されることに拘束されることだけをよろこびとしてかかげるような偏りを示す思想の中で勝ち誇るための革命などは、今に傷跡すらも残せずに、ただ跡形も消えるだけの文明からの飛躍を謳うよりも、今にいびつにシンクロするだけの正しいとされるものからの逸脱を行うことだけが、用いられるものに対する運動や行動からの離脱を叫び、自らを稼働させるのは、自らの純粋な意志であり、巡視されるために、ここでの行動に軋轢を生み出すだけの機械的な低いも高いも無く、ただ互いを裁き奪うための闘争へと倒錯するためだけにためらいを生むだけの過ちを操作し、示唆されるものへと磔にされた神を崇める以前に、神として現れた自然に回帰などできるわけも無く、自然の驚異とは、神以上の力を用い、誘引されるものすら無く、ただ身勝手に行われることを行うためだけに純粋な破壊を続ける自然などに帰られるわけも無く、ただそこで裁くも裁かれるもの無く、皆同じような結末に滑落するための破壊を待ちわびるような自然への信仰などは、自らの不備を埋めるための結合を求め、そこで同調する者たちの同時的な快楽へと至らせるような祭り的な昇華から、逍遥し続ける意識を鎮魂させるために、何かに興じる狂気こそが、純粋な生命であるのだ、と自然が教唆することにも耳を貸さず、そこで勝ち誇るだけのためらいを生むだけの正しさなどは、そこからの逸脱をめざさずに、達観するほどに、自らを見失うような井の中の蛙的なものに引きこもり、均等なものや、平等を謳うほどに用いられるものとの懸隔や落差は生まれ、もっと格差は生まれるものであるし、やがてうやまうだけの価値は、うやむやに物事を改ざんするための価値としてだけ働きを加え、労働とは、生産的であり続けることだけに価値を置き、そこで苦しむことだけを取り柄にしながら、しどろもどろに自らの正当化するための労働とは、ただ従事し、そこで代価や対価を与えられ、あたかも正しいもののように労働を崇めるべきだ、とそこでの行動を正すのは、自らの行いである、などとうながすような価値の家畜が放つ優美な結末などに結合されるものなどは皮肉しか生まないのをすでにこの文面で立証するようなアイロニカルで無慈悲な策略を用いるよりも、そのような哀れに当てこするだけの誤りを教唆するようなすり替えるための洗脳的なプロパガンダたる自らの枢要な価値の家畜からも放たれ、遊牧民として、根無し草として、偶像崇拝を続けるだけの数理的で科学的な呪術から解放され、懐疑的で、改善されることも無ければ、そこで誤りを見出したからといって、誤りを正すよりも、身勝手に屠られるままに屠られる最後をスマイルで送るような軽さとは、軽薄では無く、逃げ惑うような軽さであり、そこで需要とされるものなどは、重用なものでも無ければ、そこで正しさで抑圧される暇も無ければ、そこで正しさにより肥満化するよりも、価値的な干し草を食い散らし、糞尿をまき散らしながら、同じような量を同じような模様で食い散らすことが普遍的であり、それこそ永続すべきなどという幻想からこそ離れる。