時を乗り越える者

時間を超える意志的な現れ

兵器的な言葉

その時々の思いにより、見方や考え方は変わり、何事にも左右されず、その時折の感覚にだけ、意識は流動する。流れるままに作用する限りに、偏りは生まれずに、そのまま真っ直ぐに貫く。作用する言葉とは、退嬰的な問題から放たれ、自らの自由さで抗い、惰性に寄りかからず、自らの価値だけが、正しさを謳わずに、善悪の懸隔に陥らずに、自らの価値にカタストロフが死の外側に向かう。与えられた価値は、ただ得るものに分岐を与え、ていたらくなものを重ね、与えられた意思を自分のもののように扱う歪んだ正義は、すべてを一掃し、自分本位に世界を作り直すだけに至る完結するだけの世界に感じるままを暗示させるだけの答えから、観点は捕縛され、そこで悪に転じるだけに牛耳られる観点は、即座に蔓延る悪意に始末され、最たる意味を損ない、そこで終わりを告げられるだけに、善悪の懸隔に閉じ込められ、行為に引きずるだけの観念は、こじれるだけに至り、行為に引きずるいびつさが、陰鬱な衝動をため込み、答えを求めるだけに、用いられる事柄に応じるだけの決議に妨げられ、最たる意味を喪失し、相互依存するだけの関係性に制度はふやけ、フラクタルになるだけに担うべき答えは、問題点を損ない、行いに倒錯するだけに至り、自らの理論を喪失し、生じる運命にこじれるだけに、光景とは、他者により汚され、小さな夢を用い、一途に挑む事により、この問題が強固な意志を用い、求めるだけの答えに、こじれる事無く、事柄とは、この場でひるがえす事により、短絡的なものの支配を受け入れずに、経過していくだけの生き方に観点とは汚されずに、自ら打ち出す事だけが、物事の確かさを生み、君が見出す事こそが、姑息な観点を疎外させ、生じる運命を哲学的に考察してこそ、その場の深みや、思いに託す意味合いが、近因に絡み、束縛されずに思いが横溢するままに詩的に捉える方法こそが、体系的な論理や、退嬰的な思いを倒錯させ、等位を破砕し、観点が関係に拘束されずに、動じずに生じる思いが端々で極まり、要する事柄に応じるだけの多くの犠牲を謳うだけの戦争的なやり方に嘔気が迫り、静謐に瀰漫する不満足から、負担する思いをカタルシスさせるべく、掻き乱すだけのカテゴリーから放たれ、立場を持たずに、用いる事柄にこじれる事無く革命状態に至るべく、奮闘する意思が業火に変わるように、自らを高め高次に至らせるような高揚とは、創造を用い、立場を牛耳る権威に反し、関するものを肯定的に乗り越える先に、否定的な観念は、自己否定に陥らずに、言い分けを繰り返さずに、ただ反復する意思を強固なものに帰る自らの意志だけが、自らの力により、この位置から意志を産み出すのだ、と言い放つだけの個人主義的な悟りにこそ反し、関するすべてに対抗する限りに、その対抗するものすべてに愛を持って答えるのだ、と愛を盾に、何かを破壊するだけの輩を姑息な者だ、と言い放ち、何かを守るために摩耗する真理とは、そこに真偽を持たず、ただ自らを守るために、互いを摩耗するだけの者を魔物と呼び、帯びる言葉に巧緻な批判を用いる我こそも、姑息な馬鹿者であり、化け物である、と自己否定に陥るだけの収奪を繰り返すあてがわれただけに満たない独善的な概念を植え付けるだけの教育や宗教に反し、この関するすべてとは、生まれる以前に対抗し続ける限りに物事への背反を生み出し、蔓延る悪に転じるだけの可決から、改ざんされるだけの兼ね合いは、正義を謳い、悪に転じうるだけの体系を生み、俗悪なものが支配するだけの思案に陥る答えこそが、今にあてがわれ、自らの外観を食い荒らすだけの独占を謳い、魯鈍な支配とは、何かを収斂させずに、ただ拡散するだけで敷衍できずに、ただまき散らすだけに観点を置き、疎外されたこころは除外されたままに陥り、この国家たるものを守るために摩耗する存在とは、ただ人間的なものから抜け出せずに、自らの汚さに機械化しただけに満たない未来にプラトニックなものを用い、プロパガンダを利用し、領土を奪うだけのポリティカル・バイオレンスが導く暴力へと俯瞰は攻め入られ、生命的な語源を損ない、即座に闘争へ倒錯すべきなのだ、とすべては短絡的な暴力に支配されるだけに効力は奪われ、自らの視点に水増しされる妄りな逃走から、あてがわれた普遍性から、完結していくだけに逆らう事とは、省かれ、ただ孤立するだけに至るのだ、という恐怖などが、そこかしこで自由を奪うだけだと、この謳われる自由こそを怪しむべきであり、誰が何を求め、何を奪うための自由か?はたまた嵌まり込む今に未来を押しつける事を皮切りに、何かを犠牲にすべく、すべてとは、奪うために用いられる自由により、今に拘束され、超越を知らずに、時間を用い、その時間に追いやられるだけの迎合からは、啓蒙は生まれず、ただ用いられる善悪の懸隔に嵌まり、阻まれる思いは、答えも見出せずに、今に引きこもり、答えが何であるかすら知ろうともしない諦観や、無知さ加減には、飽き飽きだ、と思うべきである。