昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

宇宙の乳房


 動物的な本能を捨て去り、慟哭の夜空に突きつけられる余罪や、迎合されるほどに飼い慣らされる意識に住まいを移す分裂的な影を背負い、心証につらなるシンフォニーや、ファシストどもが叫ぶ現前から長ける浪費されるだけの感情が牢記するものなどは、生きるということに邪魔になるのだ、と告げるような生き方こそが、生きているとは言えず、ただあらがうことをやめ、そこに現れるものにあてがわれた事実を、事実のようにうながすことでしか、生きていることも認識できぬような生き方などは、生きていることに価値を用い、何かに値するか、相対する先に現れるものに屈従することでしか、今を癒やせずに、今に現れる苦痛と、そこで普通とされるものの間に現れる差異や、そこで快活さをそこない、底なし沼にはまり、身動きもとられずに、途端に苦しみは倍増し、そこで膨脹する苦しみに飲み込まれることに生まれる満足などはしょせんは、何かを買い取り、何かを売り続けることでしか得られぬ快楽を求めるだけの脳内の仕組みに反せず、そこにおとずれるジレンマがいずれトラウマをかかえ、理想を供給すべき愛すらも、愛することを忘れ、愛されることに重点を置き、そこで束縛される観念はあらがえずに、自らの苦しみに飲み込まれる夜に信仰しているだけの本当とされるものなどは、善悪でしか物事を測ることで自らを自覚することに利用される本質へと移行していく苦しみをかき消すための道具として、あらゆる正否を利用し、そこで制限を生む苦痛と、そこで本質をにごすためだけにためらわずに使われる保身と、そこで捕囚として生きることのが簡単であり、そこで処理される痛みに麻痺し、毎日を愚鈍にすごすほどに路上でたむろする意識は、整合されずに、そこで苦しみに巻き込まれ、そこで症状を悪化させるだけにいたり、自らを抑圧させることだけが、自らを苦痛から救う手立てのように感化させ、そこで感じる苦痛は、屈折したものをかかげ、そこに現れる痛みから逃れるために、ためらわずに何かを破壊し、そこで瓦解する意識は、果敢に挑むことを忘れ、よどんだ意識の表面をすなどる君の意識的な汚穢にもとづく苦痛の終わりへとひしめく意味も、そこでの終わりに欠けていく意識との調和を目指すべく、明晰なものを求め、そこでの判断に膠着せずに、孤立し続ける意識は、システムが用いる過剰さや、死に至るウイルスを培養するだけの感情的な汚穢を浄化させるためのアンニュイな魔法をとなえ、寂寞に解消される痛みとの調和を目指すべく、君の苦しみが散漫なものをかかえ、そこでの苦痛を倍増させるだけにいたるような闘争へと陥る先に現れる闇との対立を越えて、そこで終わり続けるだけの意思とは、何かを散漫に壊れさせることだけに専念し、自らのデカダンを超克し、ここで固執する痛みなどは、そこでの乖離を生み、どこにも自らを存在させずに、そこでそこなうだけにいたる意識は、即席の自由をかかげ、何かをごまかすことが逃避だ、とうそぶく間にもとづく痛みに疼く精神が栄進を続ける先で統合されることだけを目的とする正常こそが偏りを示すものであり、そこで締め付けられる意識は、使命感を用い、何かと同調することでしか、自らの痛みを解消できず、そこに現れる痛みが用いる大義に酔いしれ、何かを破壊することでしか、自らを認識できないような確認作業である破壊活動に専念するような現在に芸術性はなく、とがめられるほどに、自らを強調しようともくろむ意識は、そこで止揚することもできずに、ただ抑圧され続け、苦しみに耽るほどに、満足とは遠く、途端に現れる苦しみとは、満足すらも捨て去り、そこで硬化する意識を軟弱な精神がゆがめ、そこで傍観者として、傷つく自分を補完するための交換条件などをかかげる社会との軋轢が生み出す苦痛との終わらぬ戦争を続ける間に乖離していく今にも意味合いは不潔なものを重ね、かさばる思いを昇華させるような儀式的な生贄として、今に苦しみべきだ、と悟ったようなものをかかげる似而非真理的なものを吐き出す破壊的な主義を刷新すべく、あらゆる原理とは、今を苦しめるためのツールでしかなく、今に解放を謳うほどに、自由にはいたらず、そこで用いられる解放との矛盾を埋めるための空疎な自由だけが、今に浮遊し、有する価値と、そこに現れるカタストロフから、価値観の違いでおとずれる人種間の争いに転じ、そこで疎外感を生み出し、ルサンチマンを生み出し、今にはみ出すものを処刑地に送り、違いを生み出すだけの言語から、そこに限度を生み出すだけの等差から、痛みをかかえた意識は、そこでの距離を埋めるためだけの密会を続け、そこにおとずれる革命のために、何かを犠牲に今を破壊するようなものへといたるような構図を終わらせるべく、共存共栄すらも超越し、そこに現れた歴史が作り出した敵視を越えて、そこで阻むだけにいたるような保身と、そこで不安を生み出すだけの恐怖に阻められずに、おとずれるものをそのままに愛することから、互いの理解を求めるよりも、そこで同意を求めるよりも、そこでそのままに生まれたものを生々しく愛することでしか、愛を飛び越えることもできずに、そこで裏切られてもなお、何かを信じることでしか、何も始まらぬのだ、と。