昇華

時間を超える意志的な憐れや戯れ

靴底に張り付く午後


 無口な電柱が道を塞ぎ、感情も表さないで良い日々に欠落するものもなく、ただひたすらに浄化し、待つ者もいなければ、いけ好かないから、と何かを否定する必要もない。ただ狩るか、狩られるかに差異はなく、いぶかることもない。願望すらも薄れ、とぎれとぎれの午後を愛でながら、妨げられることもなく、関連する風景に縫い付けられるだけの存在などは、瞬時に損なわれ、次々に迫る瞬間につぎはぎになりながら、次々に遅疑を重ね、倦怠感を流浪しながら、まさぐられる精神が偶像崇拝などに至らぬように、いたわる主観にあふれる心情などが、創造性を豊かに、過信することもなく、ここで正常さを謳うこともなければ、異常なほどに、瞬間とは、加算される存在を謳歌し、悲観せずに、関するほどに後続していく意識は、存在をそこなうことにより、そこでの行いに正しさを仕向けることもなく、現れるものをそのままに受け取る事に本質などはねじ曲がるだけに至るだけであり、あらゆる原理とは、そこであらがうこともできずに、現れるままに支配されることに背くこともできずに、そこで正しいとされるものを従え、何かを虐げることにより、自らの正しさを認識させるための利己的な正義を押しつけ、応ずるほどに抑圧される精神は敬神に浸り、貧寒なものを愛し、物質主義的に思議する瞬間に妨げられるだけの精神は、正否を求め、制止を振り切ることもできずに、禁じられるほどに禁忌とされているものを自然に加算し、換算されるだけの精神は、清貧さを知らずに欲望のままに欲そのものを加速させるなどと性悪説がうながす正義などにさえぎられ、さいなまれることを恐れるばかりで、自らの正しさを過信するほどに監視されているように思わせるための抑制を加えるだけの原理などが打ち出す法という囲いから禍根を生み出すのは、悪である、という幻想から逃れるために森へと逃げ込み、奔走する意識は、儀式的な悪魔を改ざんしているだけに満たない正義こそが汚いものである、という認識を深めるほどに、深まる思いは、独善的な体系を生み出し、ルサンチマンを強固なものにし、憎むことにより、自らの痛みから逃げるための方法論を打ち出し、自分を疎外させるための更迭や、拘束から混淆される瞬間にジレンマが生まれ、蓄積される苦痛から逃れるための言葉がうそぶきながら、惨めさを枷に変えるために生活という幻想を記号に変えるための言葉という圧力から、さいなまれる精神は敬神に浸り、何かを崇拝し、枢要なものに変換するための犠牲的な飛躍をむかえるためだけに症状を悪化させ、不眠へとおちいるものに下克上を行うべく、取り込まれる前の精神がギミックに犯される以前に濾過されるべき意味に祝福を捧げ、重なるものに復讐を与えるためのスキームへと飲まれる景観から逃れ、状態とは、そこで孤立を続け、そこにとどまらぬから、淘汰されずに統監されるものから放たれ、瞬時に自己に帰還するよろこびを敷衍させ、膨張する意識を儀式に取り込ませずに、自らを解放するための融合を高らかに歌う。言葉はこの場に軋轢をもたらさせ、何かを保つための戦争を生み出し、あらゆるものを踏み台にし、意思を奪いながら、転換される苦しみに連動していくももに屈折させるための抑圧を与える。言葉とは、自由を奪うための取り組みであり、何かを取り込むために何かを距てるための不自由な結末を生み出すための道具であり、言葉こそが、偶像を生み出し、何かを語ることにより、継承してきたものが、今の自由を奪うための言葉を捏造し、増幅する憎悪やら、短絡的な証拠を用い、愛を欠落させるための愛という言葉が、語られた途端に愛とは幻想に変わり、利己的にまじわる先にリアリズムは損なわれ、相似する瞬間に循環すべき愛が純化させる結末に結合されるために愛とは何か、と知るべきなのにもかかわらず、関わるほどに、愛とは邪魔なものにもなるのだ、と打算するだけの主観なとは、瞬間的に妨げられるだけに至る瞬間にまじわるためだけに味も無いような瞬間的な結合のための愛に悶えるような妄想から、朦朧としていく意識は、途端に汚穢を重ね、応じるだけの結末などに捧げられる言葉に意思を奪われ、意思の奴隷として、言葉の兵士として、終わらぬ戦争に荷担する意識は、簡単に処理されるための結末に滑落していくだけの犠牲的な精神は、軽薄な瞬間の奴隷として、一生を最たるものすらなく、たださまようために言葉に騙される。詠じられる永遠などは懸隔を生み出し、今を阻めるだけであるし、いじけるだけの瞬間に循環していく永遠の愛などは、味気ないものであるし、背反すべき愛からひたすら逃げ惑うだけの毎日に枷に変わるだけの名ばかりの愛などを吐き捨てるだけの口を縫い付け、言葉を吐き出す前に、黙ることを知るべきである。